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2019/09/18
■高知龍馬空港・JR高知駅から蛸蔵への行き方


◆高知龍馬空港から蛸蔵の行きかた

高知龍馬空港<空港連絡バス約30分>宝永町停留所<徒歩10分>蛸蔵

※高知空港から高知駅へ行く直通連絡バスが便利。(2番乗り場)
※蛸蔵へは、高知駅まで行かずに、宝永町で降りて下さい。
※料金は一律720円です。

2空港連絡バス路線図1024x253
(高知龍馬空港公式サイト http://www.kochiap.co.jp/access/

空港バス時刻表
(高知龍馬空港公式サイト http://www.kochiap.co.jp/access/


宝永町から蛸蔵
(yahoo map)





◆JR高知駅から蛸蔵への行きかた



とさでん交通路面電車路面電車で行く
高知駅前--<【桟橋線・桟橋通五丁目行】>--はりまや橋--<【後免線・文珠通行 】>---宝永町--<徒歩10分>--蛸蔵


※はりまや橋で乗り換える
※所要時間40分程度


1路面電車路線図
(とさでん交通株式会社公式サイトより http://www.tosaden.co.jp/)



宝永町から蛸蔵
(yahoo map)







→公演情報

2019/09/18
10/8〜10/24 さえずりな夜『VAMOS PARTIDA』ツアー

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蛸の階に出演・演奏として参加しております山村誠一のライブツアーです。

10/8(火)@大阪・ムジカジャポニカ
10/12(土)@徳島・居酒屋虎翔
10/14(月)@高知・くぼたこどもクリニック
10/16(水)@愛媛・アポニー
10/17(木)@姫路・Teeda
10/18(金)@神戸・木馬
10/20(日)@三重・網千場
10/24(木)・25(金)@大阪・モエラド

詳細はこちらから→ http://saezuri.net/


→公演情報

2019/09/18
9/18〜9/29 さえずりな夜『VAMOS PARTIDA』ツアー

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蛸の階に出演・演奏として参加しております山村誠一のライヴツアーです。

9/18(水)@京都・まぃまぃ堂
9/19(木)@福井・森のめぐみ
9/20(金)@石川・カフェ・アルプ
9/21(土)@富山・太閤山ランド野外劇場
9/23(月)@東京・晴れたら空に豆まいて
9/24(火)@鎌倉・朝食屋コバカバ
9/25(水)@静岡・Esquerita68
9/26(木)@名古屋・得三
9/27(金)@岐阜・Majolica Bamboo
9/29(日)@奈良・うのまち珈琲店

詳細はこちら→ http://saezuri.net/


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2019/09/16
9/14稽古場日誌(佐々木)

来年2月神戸公演で使わせていただく神戸アートビレッジセンターで朝から稽古、お昼からはワークショップ、というひねもす蛸の階でした。

稽古とワークショップ会場はKAVCの会議室をお借りして、本番で使うのはギャラリーとロビーのスペースなので、あらためて本番をイメージして眺めてみる。ロビーの吹き抜け感がいい感じに劇設定の野外の開放感につながったら気持ちいいだろうなと思いました。今回は高知会場の蛸蔵とKAVCのギャラリーで空間がまったく違うので、同じ劇だけど舞台もまったく形になると思われます。

稽古はあいかわらず七井さんと森本くんとぼくのシーンを繰り返し。とにかく森本くんがいっぱいしゃべって2人が聞き、ぼくがいっぱいしゃべって2人が聞く、というシーン。繰り返しやっていることで決まってきたことが多くあるのですが、この日もそれが裏目に出る形に。決まってきたことで安心して立てるようになるのですが、それよりも何も決まっていなくて必死に立ってたときのほうがおもしろい。稽古を重ねていくことでサボり方を覚えてしまうというのは恐ろしい。自戒。

ではなぜこんなに稽古すんねん。やればいいという話でもないにしても、やはり稽古量でしかたどり着けない地点というものがあるからでしょうか。こういう掘っても掘っても何も出てこないようなしんどい時間を過ごしてしか掘り当てられないお宝を探して、今日も稽古場に向かっております。


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2019/09/13
9/12稽古場日誌(佐々木)

仕事終わりで、一旦帰宅して、家賃を振り込み、稽古場に直行、電車の中で「あかん疲れてる」と感じ、以前七井さんに教えてもらった呼吸に集中することでコンディションを整える術を電車内で実行、車窓に映る自分を眺めながら1人スーハースーハー深呼吸。稽古場に到着してさあやるぞとアップを始めようとしたけど一度寝転がってから立ち上がるのが億劫で億劫でこれはまずいぞ今日の稽古、ぜんぜん思うように体が動かんどうしようかというあいだに稽古は始まるものです。この日がまさに。しかし動いてみると意外と楽しい。というか、以前の稽古開始に向けてばっちりコンディションを整えてきた日と比べても調子がいい。

ということで、調子のいいとき・悪いときというのは自分に何が起きているのかというのを考えてみるいい機会だったのでした。まずは、調子が悪い、思うように動けない疲れたしんどい、というコンディションを受け入れるところから始めることができたのはよかったなと思いました。ぼくだけかもしれませんが、今の感覚に抗わず、「できない」という認識から出発することで、余計なものを加えずに目の前にある材料だけでどれだけ美味しい料理が作れるか、という挑戦をすることができる、その制約が逆に表現の可能性を広げる。Never Young Beachの安部勇磨さんがツイートしておられたように、「難しいは楽しい。うまくいかないも楽しい」「結局うまくいかないときがなんだかんだで1番楽しいのかもしれない」名言!でも気を抜くとうまくいかない不安やしんどさに耐えられなくなって、すぐ上手いことやってしまいそうになる、それはぜんぜん上手いことなんかなくて、料理を始める前のいろんな下拵えをすっとばしてすぐ料理しちゃう感じになる。ぼくのサボり癖がエグいだけかもしれませんが。逆に「今日調子いいぞ〜」と思えているときはあとは稽古の時間を通して堕落していく一方で、だから「できない、しんどい、不安」と思えているときのほうが安心していられる。そもそもの「舞台に立つ」ということの異常さを感じられているかどうか。そのためには状況を見る冷静さが必要で。

稽古っておもしろいなと思いました。


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2019/09/10
9/10 蛸の階(中城賢太) 台本×ドラム=稽古場?


 蛸の階での稽古場の様子を台本とドラムを掛け合わせて説明してみた。

 (分かりづらい表現、お許しください)

 例えば、役者が台本を読み込む行為を、好きなCDからドラムの音を拾って演奏に持ち込もうという行為と重ねてみる。

 台詞はCDから聞こえるドラムの音であるとする。挑戦者はその音から、CD内のドラマーがどのようにドラムを叩いているかを考える。このドラムを叩く動きをサブテキスト(台本にかかれていない情報、間)とする。

 台詞    =CDからのドラムの音
 サブテキスト=CD内でドラマーが叩く動き 

 挑戦者はドラマーが叩く動きを知ることができない。これでは動きを見直すことは至難の業である。そこで演出家が登場する。
 演出家はドラマーの演奏を観ている者であるとする。演奏を観ている者は挑戦者がドラムを叩く動きがドラマーと違うことや、うまくできていないことが分かる。
 作・演出家となれば、ドラマー本人に近い。挑戦者の動きがどのように違うか、どんな動きが適切かも分かる。

  演出家=ドラマーの演奏を観ている者
作・演出家=ほぼドラマー本人

 挑戦者は、まずドラマーが叩く動きを体現することを目指す。そして願わくば、ドラマー本人を超える動きを実現してもらいたい。
 
 答えが与えられないため、挑戦者はドラマーが叩く動きを体現すること自体難しいと感じる。しかし、答えを知らないことが、ドラマー本人を超える動きが生まれる要素となる。

(ここに共演者の要素を加えると、ドラマーだけではなく、バンド全体の動きに発展する。)

以上。


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2019/09/10
9/10稽古日記 音と対峙して台詞を言う事 (七井)

記事のタイトルに「対峙して」と書きましたが、もっと適切な言葉がありそうな気がしています。
向き合って?操られて?関わって?絡まって?
現在の自分の状態は、対峙して のようなので、これからまた変化してゆくのだろうと思います。

音、とは稽古場で山村さんが楽器(と口笛)で出している音です。
いわゆるBGM(バックグラウンドミュージック)としての音ではなく、役者が発する台詞と同じ(階層にある?)ものとしての音、を役者の演技に集中しながら山村さんは出しています。

今日の稽古でその音に反応しながら行ったところ、自分が喋る長台詞が大分柔らかくなっていた、と演出の久野さんに指摘されました。そしてそれは自分にとっての良い変化なのでは?、と考えています。
どうしても台詞の意味を拾って追ってしまい、そこから自分なりの役の像を作り上げてしまう。その事に気づきました。

ではこれを、音がない状態(山村さんがいない状態)の稽古でどうやって再現するのか?
音がないのに演技している時の感覚を再現しようとしてもまず上手くいかないでしょうから、
相手役の台詞や仕草、表情の中にその変化の引っかかりを作っていかねばならない、が今の所の指針です。

まあ、稽古前に考えてきたことは大概稽古場では上手くいかず、思わぬところから道が開けるものなんですが。



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2019/09/09
10月14日(祝)・20日(日)劇団さあもん『空き地の隅で空っぽの空き瓶が空を見上げた日』

蛸の階に俳優として参加の森本聡生が脚本を担当しております。



劇団さあもん第三回公演『空き地の隅で空っぽの空き瓶が空を見上げた日』
演出:卯月凉生・雪上陽生
脚本:森本聡生

日時:10月14日(祝)・20日(日)
両日とも11:00〜/13:00〜/15:00〜/17:00〜

会場:貸しスペースうずめ(大阪・天神橋筋六丁目)

ご予約はこちらから→ https://www.quartet-online.net/ticket/akitchnosumi


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2019/09/08
9/8 蛸の階稽古日記(中城賢太) 台本読み込みスキル必須

9/8の稽古で得られたこととは…

 台本を読み込む力は必ず要る。

 稽古場近くの自販機トーストうんまい!


今日の稽古メニューは、

 漫才形式で立ち稽古(マイクあり)
 
 台詞の前に話すきっかけとなる気持ちや言葉を
 つぶやく
 
 台詞の意味を一つ一つ確認していく

でした。

 そこで教わりながら見えてきたのは、

・一人で読んだだけでは理解できていない台本読み込みレベル

・理解できていない部分を感情やオリジナルストーリーで結論づける癖

・台詞の度に変化している立ち位置(登場人物の話の理解度、気持ち、聞く側、聞かれる側、話のズレを戻す、ずらす、その場の力関係等)

・役者の役割と演出の役割について…

盛りだくさんでした。

話代わって、今日の稽古場近くにはゲームセンターがあって、その側にある自動販売機コーナーにはトースト自販機があります。

タイトル トースト自販機
 
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ホイルで覆われたトースト
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チーズとハム、二種類あるのですが、そのチーズがうまい!チーズの旨味にホンノリあったかトーストサンドか合間って、これで230円は安い!

稽古疲れも癒される夜食となりました。

タイトル トーストチーズサンド
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2019/09/07
9/6 蛸の階稽古日記(中城賢太) 与えられた役に好意をもつと

9/7の稽古で得られたこととは…

与えられた役を好きになると、盲目になってしまう。

 以前稽古の休憩中、恋人にしたいならどんな人がいい?って話になりました。その時は稽古には関係ない話かなと思っていたのですが、9/7の稽古で、僕は自分の役に恋をしているのではないか…と…。

 いえ、違うんです。付き合いたいとか、そういうんじゃなくて。役の人物に好感を持っているということなんです。


タイトル 伝えようともがく男
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 稽古を重ねると、段々、役の人物のさまざまな一面がわかるようになって、興味が深まるというか、それはいいことだと思うのですが、

 役の人物の好きな面ばかりみるようになったり、強調するようになっている。

 この状態に自分が染まっていることに気づいたんです。

 次の稽古では気を付けていきたい。役の表情を消してはいけないと思いました。


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2019/09/06
稽古日記 荒木 9/6の気づき

綱を引っ張り合ってみる
台詞に力が入るようになった
引っ張られたニュアンスを言葉のアプローチに対して感じれたら良い。

稽古方を持ち寄ることもできる。なにか新しいことをして、新しい感覚に気づけるのならそれは良い試みです。とりあえず、なにかできるアプローチ、方法はないのか調べて稽古場に提案してみることが大切。

目が潰れる。目が曇っている。
普段の方が目がキラキラしている。
なにが原因か?心理的な違いがあるのか。

明るくやってみることで、現実に戻る時の瞬間が映える。なにかかかえているから、気になってみる。腹の内を簡単に出している人を見たいとは思わない。
なにか本音を話す、現実に戻るきっかけがあるはず。
表情は変わっていない。
感情の起伏は出だした。
表情の大きさはもう一押し。
ジェスチャーしようとしているのはわかった。手話みたい。手話は表情ありき。
テーマパークのキャストみたいにしてみようとしてやったやつはやり過ぎではなかった。

……、そうなったらいいなぁと、、
この「……」にはなにか意味があるはず。

事実を語っていることと、自分の信じている伝説を語る時には気持ちの変化があるはず

「」がついている台詞はキーワードであり、なにか意味があるはず

台詞を覚えているからといって、台本を見返さないのは危険。隠れたり、見過ごしたりしている脚本解釈のヒントがあるかもしれない。
再度、文字としての台本を見返してみようと思う。

文単位で伏文だったりを理解できてるけど、物語の流れとしてもっと違う表現ができるかもしれない。
もっと構造として広く捉えて考えてみてもいいかも。

野心が感じられない。実験していない。3回やったら3回とも一緒に感じる。変えているのかも知れないが、それは観ている側には伝わっていない。もっとわかりやすく、オープンにしよう。

緊張する?しないのはなぜ?あまり良くないねぇ。稽古場では新しいことをするから、それがウケるか心配で不安を覚える。本番では決まったことをするから、安心するのでは?
それは新鮮な気持ちで本番をできていないということで、良くない。
遊ぶ楽しみを知らない。それは余裕があるなしには関わらない。


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2019/09/03
稽古外日記 荒木 9/3の気づき

全体像もわからないのに、未知なのに、全ての無意識に自覚的になることはできるのか?

先人の気づきを得るための、知識を取り入れるしかない。トレーニングによって、発見することをただ漠然と繰り返すしかないのか。

そして見つかられる可能性は低いが、まだ、誰も気づいてないことがあるかもしれない。

映像は稽古ができない。だから、事前になにをしてくる必要があるのか。
それを舞台の稽古場までに準備してくると、更に稽古の質・密度が高まるのではないでしょうか?調べてみる必要がありそうです。

なぜ基礎練の指導を任されて教えた時に、メンバーの1人だけが不満そうな顔をしていたのか?自分の既知の内容だったから?根拠がないように感じたから?早口でせいで喋ったのが幼稚に見えて説得力を欠いたのか?人にものを伝える時にはどのように伝えたら良いのか。上記は、自分の感覚を言葉にして伝える際にも注意できることだと思います。


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2019/09/03
9/1 蛸の階稽古日記(中城賢太) 試行錯誤と日常会話の意義


9/1の稽古で得られたこととは…

土台となる台詞の間の確認と、試行錯誤。

日常会話の反応をイメージ化できた?

 稽古終盤で作・演出の久野さんと柴さんと3人で台詞の確認をする。台詞の意味を考えて喋っていたつもりだったが、説明を聞いた後では台詞の繋がりや背景が整理されて、少し肩が軽くなった。今まで随筆や小説を色々読んできたけれど、変に深読みして難しく考えていた部分もあり、逆に登場人物の人間関係で重要なところを読み飛ばしていた部分もあるなと、気づかされた時間でもありました。
 そして、得られた台詞の繋がりや背景を大事にしつつ、主要なシーンを稽古。台詞が浮わつく、自分の感情に盛り上がっている、語尾や聴くときの癖等、修正する部分は多い。舞台上での動きは試行錯誤の連続で、出来不出来が分かりずらいがそれでも、試して身に付けていかなくては。

 日常会話での反応はイメージ化出来るような気がして、どうしようか考えていたが、僕の絵心はスマホの絵文字程度。言葉で書いてみる。

解釈中…

 日常会話では、言葉と気持ちの割合が4:6のような気がする。つまり、言葉の意味より、気持ちの意味が強く伝わる。?…日常会話は人生の中で使いならされている言葉が多い。だから、言葉の意味だけでは判別しにくい。そこで気持ちの在り方が言葉の意味に強く影響を及ぼす(挨拶はその典型だと思う)。
 そんな日常会話は、ちょうど相手に向かって気持ちのシャワーを浴びせているようにイメージできる。言葉は相手が理解する手掛かりで、言葉を発する理由、その主体ではないと思う。だから、言葉の意味以上の情報が伝わってくる。不明瞭ではあるが。そんなやりとりが続くことで、相手や自分の状態を共有していると考えられた。仕事の前の世間話や、道端での会話等。



稽古後の花火。この夏初めての花火。
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2019/09/02
稽古日記 荒木 9/1稽古場での気づき


流れを阻害するもの
自分の間(ま)で台詞を言っているから、流れが切れる。糸が生まれない。進行している流れの中で一人停滞している存在がある。するとその停止の度に物語も止まる。止まることによって、思考が舞台から現実に戻る。
役としてではなく、荒木晶成として舞台に立っている瞬間が幾度となく見られる。実際、台詞を言う前、つまり相手から台詞が投げかけられた時、困った顔になるという視覚的な癖があるとわかりました。

殻を被っている。なにかを守っている。
そう見えるらしいということが発覚しました。それは自分をさらけ出すことへの恥ずかしさなのか、いやそういう恥じらいは感じていませんでした。ただ、これはしてはいけないのかもしれないという意識があったように思います。無意識に一瞬、複数の選択肢が浮かんで一番無難なものを選んでいる感覚です。その時に感じたものを素直に出すことはなにも恥ずかしいことではありません。もっと適当にやってもいいんじょないかな、という指摘は決しておろそかにするという意味ではなく、やってみたことが良かったのかは、やってからしかわからないからまずはやる。そこに壁を作る必要はないということだと受け取りました。これまではなにかを守っていた。それを少しだけ解放できたようです。


意味と音は通じてる
台詞をどう言うかではなく、なんで言うのかということについて考える必要がある。
どういう心境になるから、その言葉が口からでるのか。なにを相手に伝えたくて発するのか。それは実際に表出した音に反映される。
もし、台詞の意味を持たせられていなかったら、それはただ読んだだけの文章。会話、コミュニーケーション、芝居にはならない。ただ台詞を言っている感があるとはこういうことではないでしょうか。

できた、できないの感覚
その一回では、できた。
でも、その次にはできなかった。
そんな感覚の繰り返しが起こる。
できるできないの背景にはその時に触れている全ての状態や要因に基づいていると思ます。できることの精度を上げるには、その背景について分析し、できる限り準備をすることにかかっているのか。

長い手足、身長をもっと活かして
大きく動きがあると、その視覚的な印象はより強まるのだろうか。そして小さな動きと大きな動きは、異なるイメージを伝えるのだろうか。
長い手足を持った人間が素早く動くと可笑しい。『時計仕掛けのオレンジ』に出演した小栗旬さんについての紹介文にこれと似たようなことが述べられていました。
私が舞台で突拍子もない挙動を取ったら、それが記憶に残って面白かったという感想もいくつかありました。
なぜ良いのか。なぜ面白いのか。
それは今後も探っていかなくてはなりませんが、「細長いものが大きく早く動くと可笑しい」ということは共通して言えるのかもしれません。

話し合う場の雰囲気も大切
より議論が盛り上がるためには、どのような問いかけをしたら良いのか、どのよつな態度で発言をすれば良いのか。私が演じた様子を周りに尋ねた時に、空気が重くなるのを感じました。きっと、質問に対する回答がしにくい状態をつくってしまっているのだなと察しました。話合いの雰囲気づくりに関して、私にできることはあるのか考える必要がありそうです。

経験・知識が皆豊富、聞けることはたくさんあります。悶々と一人で考えることはせず、分からなければ聞く、どう感じたか伝えてみる。やりとりの積み重ねによって、自分の感覚として、これかというものが見つかるのだと思います。その状態になって初めて、自分の言葉で説明する段階に入れるのではないでしょうか。もしそうであるなら、とにかく、いろんな人にたくさん意見を聞いてみることが、早く経験・知識を積み重ねるための術ではないかと感じました。正解がわからないことに対して、見解が異なることはもちろんありますが、同じことを別の角度から説明していたり、おおよそは似ているが部分的に異なる場合もあります。全てが一致するというこのとはまずないと思います。その時に、落とし所として、自分の考えの位置を明確でなくてもぼんやり捉えることができるかどうか、それが重要だと思います。

相手役から
スペース、受け皿?が広がったと感じた。
これまでは、自分の狭い周辺に意識があるように見えたが、その意識が少し広がり、相手を見るのに使っているように感じたということです。変化前は相手を無視している訳ではないが、それに近い状態だっという。内へ、自分に意識がいく癖がついているのは確からしいため、そこをもっともっと広げていきたいです。どのようにすれば広げられるのか。

いままでには感じなかった温度を感じた。
これまでは、どんなアプローチをしても、なにをしても、動じない断固として動かない印象があったそう。それが少しだけ受けたものに対して動くようになったらしいです。温度というと私は少し捉えづらい部分があるのですが、この漠然としたものを、ほかの言葉で説明できないか考えます。

「一本の細い糸のようなもの」糸というのは、自分の一人で考えた流れを守ることだと考えていたのではないか?そうではなく相手役とのやりとりの中に見出し、探ってお互いにつなぐもの。糸が見えたときの芝居では、生まれたての子羊のように見えた人もいたようです。新鮮な身体をつくれていた?その場での反応を取ることができた?
なんか繋がっていた。


数日の稽古の中にも、
たくさんの気づきとそれに伴う小さな変化が徐々にみられるのではないかと感じました。


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2019/08/31
稽古日記 荒木 細い糸

稽古日記 荒木 一本の細い糸のようなもの

シーンが繋がっていない、
役の気持ちが続いていないと感じたことはありませんか?

ある共演者から「一本の細い糸のようなもの」でしょうかという言葉を聞きました。

そこで僕が思ったのは、糸は一本伸びているもの。糸はシーンの始まりから終わりまで、常に存在している。であれば、その糸が伸びている最初の一点があるはず。そう考え、シーン開始時の灯台守の気持ちを想像して、ある心境を想像して持って演じました。

しかし、いまいちしっくりこない。

どのように演じるか変えてみよう。

笑顔で明るい雰囲気にしましょう。

そうすると、悲しみがより感じられるようになったという。

井上ひさしさんのいう、笑いと悲しみの関係にも似ているかもしれない。

思いと反対の言い方をすると、
より思いが強く感じられる。

悲しみの感情が伝わった。
灯台守の心境の変化が明確になった。

このシーンを観れるようになったともいわれた。

観客がなにか起こっている所を目撃する。
このシーン上で灯台守の心が動いたことが観ている人に伝わる。

話についていけるようになった。

「糸はある瞬間に生まれる」
そう口にした人がいました。

それは、ある瞬間から物語が動き出すイメージ。なにか出来事が起こったと認識できる時のことかもしれません。

糸=感情?
糸の波打ち=心の動き?

なにも起きない舞台を観るのはしんどい。
聴き手にかなりのエネルギーを強いる。

これからなにが起きるんだろう?
と気になってしまう。
つい、見ていたくなる。

そんな空間を舞台上につくるには、
この「一本の細い糸のようなもの」が手がかりとなるのかもしれません。

とはいえ、まだこの感覚が自覚できていないので、まだまだこれからです。



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2019/08/28
8/26 蛸の階稽古日記 中城賢太 自分を複数の視点でみる

8/26の稽古で得られたことは…

複数の視点でみえてきた、自分の姿と目標


正直、かなり辛い稽古でした😰。みえてきたのは、自然に注目してしまうような会話をしている自分ではなく、一人で盛り上がっている自分😂。
けれども、自分が何を目指しているのかがはっきりしました。徐々に本番が近づいてくる。着実に進むぞ✊。

※写真タイトル
 役者が苦しむ様を嬉々として撮る吉田氏。
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2019/08/27
8/26 蛸の階(中城賢太) 反応の図式化に挑戦

 今日の稽古日記は捉え方を精査する必要があるため、後日記載する。よって、主題の通り、稽古で感じる会話での反応を備忘録として簡単に図式化してみることにした(もちろん未完成)。


自己の反応=直前の相手の反応×自分が保有する情報+周りの環境の変化

 直前の相手の反応が捉えられない場合は、直前の自己の反応を代替する場合があるが、これは自分と話しているようなもので、会話にはならない。相手の反応を読み取る力が問われる。

 自分が保有する情報が少ない場合、伝える気持ちが乏しくなる。反応する根拠がないからである。
 そのような状態で台詞を喋ると、誰かに言わされているような空虚なものとなる。もしくは、まるでその台詞が要因もなく発生したかのような、不自然な状態になる。まず台詞を読み込み、論理的な成り立ちを知ることだと教えられた。

 周りの環境の変化に鈍であると、共演者や舞台と調和せず、一人浮いているような印象となる。台詞を頭に叩き込む、稽古を重ねることで一つでも緊張する要素をなくす。舞台であることと、舞台上はどのような場所であるのか(砂浜、ビル内、公園等)は分けて考えなければならない(出来ていないが出来るよう頑張る😤)。

今日はここまでにしておこう(御意見や訂正等コメントお待ちしています)。




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2019/08/24
8/24 蛸の階稽古日記 中城賢太 役作り1そして2

今日の稽古日記で得られたことは…


役作り、自分の今までのやり方とこれから

自分が 蛸の階 の役者になろうとしていること

 役作りについては、8/4→5の稽古で得られた、関連することを整理することから始めたい。
 その日の稽古。何もしないということが、何も判断しないという意味ではない、という言葉から、
 ・自然体、相手の反応を聞く姿勢で臨むこと。
 →相手とのやりとりの気持ちが掴める。
 別の言い方だと、
 ・自分の世界を作り上げていかない。
 →表現に集中し過ぎて相手の反応が掴めない。
 
事が整理できた。
 今日の稽古ではさらに踏み込んで、僕を含む役者にありがちなこと、具体的な役作りについて話が及んだ。
 役者が役作りのプロレスで、疑問に感じる時がある。自分が思う登場人物の性格と、稽古で指摘される事から類推される登場人物の性格に違いが生まれる時だ。そんな時はとても悩む。どちらかに統一しなければならないと考えてしまうからだ。だが、今日の稽古でそうではないことに気づかされた。
 自分の役作りを今ならこう例える。自分の台詞の中に共感できるものや、稽古で理解した自分の気持ちがある。それらを線で繋いで登場人物の性格としていた。そして、該当しないことには違和感を覚える。
 
 台詞と台詞の間には様々な気持ちの変化が含まれている。その中だけでも色んな気持ちがあり、更に共演者とのやりとり、稽古場の状況、本番までの進み具合での無限の変化が考えられる。だからこそ日々の稽古で気持ちや動きを常に発見していく姿勢が必要。性格というのは本番で始めて決まる。そしてこんな性格だと一概には言えない。

明日も稽古は続く…。


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2019/08/22
8/22 蛸の階稽古日記 中城賢太 作り直し

今日は久しぶりに合同稽古。そこで思い出したこと。

自分に思いを伝える力がなければ、伝わらない。
今日は、それを示す相手の反応を受けとめられなくて、舞台の上に自分の世界を作り上げていたんだと思う。

全ては反応。もう一度、一つずつ。


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2019/08/22
周縁をグルグルすることについて(七井悠)

8月21日に大阪組(佐々木、森本、七井)の三人で稽古をしました。

久野さんの作品を読んでいて、言葉が「或る何か」の周辺をグルグル回ってやり取りがされている
という感覚を私は受けます。言葉にして言ってしまうと、そこから色々なものが抜け落ちしまうような
「何か」を、その周縁でグルグルしながら言おうとする言葉たち。

俳優として自分が喋る台詞(言葉)は、それくらいのあやふやさであり、やわらかさを持ったものだと
考えて稽古をしてみました。自分一人で意味を決めてしまって、台本の世界を自分で閉じてしまわないこと。

後、作品に登場してくる人物は皆「偶然」出会って、言葉を交わしているのだと気づきました。
自分の知っていることと、相手の知っていることは違うし、同じ単語を喋っていてもそこには
常にズレがあるのではないか?という感覚が、会話の中で重要なのかもしれない。

少しづつ役が動き始めて来ています。


→公演情報

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