2015/08/31
稽古場日誌【客席編】…中村彩乃(役者) 役者について

今晩は、役者の中村です。お久しぶりです。いえ、そうでもありませんでした。

稽古場日誌ということはなのですが、ここ数日の稽古で得た物が自分の中でかなり大きかったので、漠然とになりますが、得たものを書いておこうと思います。乱雑な文章、というか文章になってるのかもわからないレベルですがお許しください。

一昨日、昨日の稽古は七井さんがいらっしゃらなかったので森田さんと浅田さん、大谷さんと吉本さんに稽古ご一緒していただきました。(こんなに贅沢な経験は、後にも先にも中々無いのでは無いでしょうか。有り難い限りです。)

○その2回で
・ギャル(私はギャルをはき違えてると思いますが一応)
・土星人
・カニ
・靴下
でしてみました。
不思議なことですが、上二つでは「中村ならこうする」という自分の範疇を越えたもののフィルターを通したことにより、自分の言葉が自由になりました。
また、下の二つではえらく相手の一挙手一投足に全神経を総動員して見ていため、相手ときちんと話ができたように思います。
この、特に後者の「相手をしっかり見る」ということは、自分の中で非常に良い稽古でした。
同じくして、久野さんに「お客さんは別に気にしなくても良いよ」と言っていただいたことも大きかったように思います。この「お客さんの存在」については、今までもよく自問自答してたのですが、演出家さんというポジションの方から正面切って言葉にされたということが、今まで案外なく、何かが自分の中で外れたように思いました。

○「登場人物としての感じて話して生きてる(ということをする)私」と「役者としてお客さんに登場人物を表現をしようとする私」の二つの塩梅が難しいということを稽古中にぼやいたいたところ、その塩梅考えるものじゃあないのでは、という話になりました。

○「登場人物になろう、なったと表現をすること」を逆算している時点でそれはベクトルの向きが違う。登場人物、というか人間は何かから逆算して生きてない。進行形で生きてる。
例えば観客は観客になろうとして劇場に入ってきてない。劇を見に来て、それが誰かから見たとき始めて観客になる。
なのにそこで役者が「観客になろう」としたら、その意識がすでに回りから浮いてるのでは、ということについても稽古中で話しました。

○不思議なことで、演出さんやお客さんが「良かったね」と感じるときって、役者は何も考えてなかったり、今のなんか違うなと思ったりすることが多いです。
(多分私以外にもその経験がある人はいるかと)意識を空っぽに、または、全然違うことに気をとられてる役者の状態って案外、普段の人間の状態に近いのかなと、感じました。

○あと、「聞き方」にいう点をピックアップして、私達の普段と舞台の上での身体の状態についても考えました。
私たちが普段生活する上で、人の話を聞いてるときって、(私の場合特に)そんなコックリコックリ頷いて聞かないもので。
芝居でするコックリコックリとか、あれって、相手の話を聞いてるよ!って伝えるためのリアクションとしてのコックリコックリは、相手との対話だけど、「相手の話を私今聞いてます。ほら、コックリコックリって動作、話聞いてる時によくするでしょ」という役者としての(もしかすると無意識の)表現としてしてしまうと、それはお客さんからすると情報じゃなくなってしまう。


そのような話しました。


自我は消えない、というか、消す必要がない、どう付き合っていくかということを考えないといけないのではと、思いました。相手ありきの空間だということを忘れないよう、また、あまり今回得た物に縛られ過ぎないよう、幸い長期的に創ることができるので、柔軟に、今回得たものを使っていきたいと思います。

長くなりました。失礼します。















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