2015-05-04  23:05  by 階 
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Recycle缶の階の稽古はまだはじまっていません。
はじまったら定期的に更新いたします。
※初演時の稽古場日記は
こちらです。
 2015-07-14  17:37  by 階 
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先日客席編の顔合わせ・初読み合わせがありました。
緊張しつつも作・演出の久野那美さん、役者の七井悠さん、中村彩乃さんと簡単に挨拶をして、
こういった場をうまく和ませるにはどうしたらいいんでしょうなんてお話しながらすぐにそのまま読み合わせに入っていきます。
一番はじめに最初から最後まで読み進められるのを聞いていると何だか詩の朗読のようでした。
そこに久野さんがエッセンスを加えていきます。
一回相手のことばを受け取ってすぐに投げ返してみましょう。
今度は声を大きくして、その次はなるべく低くして…
すると、読まれているのは同じ台詞なのに次第に言葉が全く違う顔を見せ始めます。
今度は確かに人と人との会話です。
色が、世界が広がっていきます。
少しのことで受ける印象がぐんぐん変わっていってそれにまた惹き込まれます。
演じる人がそのことを楽しんでいるというのはすぐそれを受け取る側にも伝わりますし連鎖します。
その連鎖を見ているのがまた楽しい。
最終的にどこに向かっていくのか、そして到着するのか。目を開いていきます。
制作助手
吉本尚加
 2015-08-18  02:25  by 階 
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太田宏です。
今日は再演舞台編の初稽古でした。
パシフィックシアターを使わせていただいて、劇場稽古させていただきました。
メンバーは久野、諸江、森田くんと、私は初めましての浅田真那さん。
稽古場に演出とは違うもう一つの目があるのはありがたいです。
あとのメンバーもグンと若いらしいです。
いやあ、稽古、ヒリヒリと頑張りますよ〜。先ずは、彼らに飽きられないように喋れないとダメですもんね。
演劇のスタイルには流行り廃りがあると思います。
でも、役者のアプローチには、何千年も昔から脈々とある、普遍的な「何か」がある気がしてるんです。舞台に立ってお客さんの前でしゃべる、ということなんですから。
でも、その何かが、掴んでいるのに、はっきりしない、掴めてそうでくっきりしない。
つまり、うまく説明できないわけなんですが・・・。
というわけで、体現するしか手は残ってないんです。なので、やってみます。
観て、そしてどうなってるか、教えてください。
チケットも発売しております!
花園町パシフィックシアターに立ってます!
 2015-08-18  10:01  by 階 
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こんばんは、中村彩乃です。今回客席編に出演致します役者です。
さて、今日の稽古は、自由に身体を動かしながら、本読みを重点的にしました。
台詞は完璧に入っては無いものの、やっぱり台本をはずすことによって生まれる余裕があり、
なるだけ早く完全に台詞をいれたいな、とひしひしと感じました。
そして、ただ読むだけでなく、久野さんからの提案のもと、私は幾つかの挑戦をしていました。
例えば
・自分の聞いたことない音を出してみる
・相手の言葉(音)をよく聞く
・ゆっくり話してみる
・目をしっかり見る
・私は無言で、七井さんは台詞有りで。また、私は音だけで話してみる。
等のことを。
台詞の広がりの可能性、表現的な部分と叙情的な部分の匙加減、役者の特性についてを多く話せたように思います。
如何せん私は経験が足りないので、出来るだけ素直に、柔軟に、空っぽにして、
でも役者としての責任を持って稽古したいものです。
本番までの期間、焦らずに何かを積んでいきたいと思います。
どうぞこれから、宜しくお願い致します。
 2015-08-27  23:39  by 階 
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今回、recycle缶の階の「客席」を扱ったほうの作品に出演します、七井と申します。
このrecycle缶の階、とは去年の末に「缶の階」という団体が上演した、「舞台」と「客席」にまつわる二作品を、「再演」する団体です。
今回私は同じ作品を再演します。「客席」にまつわる作品は、二人芝居でして今回は相手役の女優さんが前回とは違う方です。
その女優さんは中村さんといいます。27日は中村さんとの二回目の稽古でした。
今回、久野さんと再演するに当たってどういう風にやろうか、ということをなんとなく話をしました。
その中で「自然にやる」という言葉が出てきました。
もっと言うと、「抽象的な事柄を非常に具体的にやる」ということになるでしょうか。
前回は、とにかく台詞(言葉)に忠実に、一語一句違えずに話す ということを目標に稽古をしました。
今回の目標は、自然にやる です。
一度演じた作品をどう自然にやるのだろう。
そもそも自然にやるとは何だろう。
稽古はそういった、疑問?をはらんで進んでいます。
今回は2回目の稽古とあって、お互いに立ちながら台詞をあわせてゆく稽古を行いました。
一番印象的だったのは、椅子を使って稽古をしたら(客席、なので椅子がある)とたんに台詞が台詞くさくなった・芝居が芝居くさくなった ということです。
台本に指定のある「椅子」を使うと、とたんに演技がわざとらしくなった=ではない
のは何なのだろうか?
もしかしたら「椅子」は使わなくてもいいのか??
それくらい、可能性の幅を広げながらの稽古でした。
 2015-08-29  23:06  by 階 
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今回演出助手として関わっております、浅田真那です。
29日は京都で客席編の稽古でした。
出演者の七井さんがお休みだったので、演出助手の森田くんが代役をして、もう一人の出演者である中村さんと本読みを中心に稽古をしました。
本読みといっても、椅子に座って机に向かって、というような稽古ではありません。
役者さんたちは稽古場を歩き回り、身体を楽にして、時には(ボール無しで)バスケットボールをしながら……などなど、様々なかたちでセリフを読んでいきます。
中村さんは久野さんからの指示で、ギャルになったり土星人になったりしながらセリフを読んだりもしました。
↓わっかが素敵な土星人の中村さん。
私たちは時々、
「こういう役なら、こう読むのがそれっぽいよねー」
と勝手に決め付けて、セリフを読んでしまいがちです。
でも、自然に言葉を話している時、「自分はこんな人間だからこんな話し方をするんだ」と決めて話す人って実は少ないんじゃないかと思います。
中村さんが土星人として言葉を話している時、見ている人は「あ、それ土星人っぽい」と思うことはまずないでしょう。土星人に正解はありません(あってもわかりません)。
それと同じように、こうすればその役っぽくなる演技なんて、あるはずがないのではないでしょうか。
そんなことを考えさせられる稽古でした。
残念ながら本番で土星人が出てくるわけではありませんが、舞台でしか出会えない、中村さんの役に出会える日が今からとても楽しみです。
 2015-08-31  08:57  by 階 
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今回演出助手を致します、大谷菜々です。
本日は桃山台にて客席編の稽古でした。
今日は七井さんがお休みだったので前半は中村さんと観客が客席に着くまでの過程の稽古をしていました。最初は先日のように土星になったりギャルになったりしながら稽古していたのですが、そのうち人はただ椅子に座れと言われたらどんな行動をするかについて考え始め、すこし実験をしましたが…詰めが甘く失敗に終わりました。またの機会に……
後半は制作助手の吉本さんの参加により、ダイアログの稽古をしました。これもまた先日のように何かになりきったりしていたのですが、お題が人で無くなっていくにつれてその物自体の役割、形、その物に自分がどのように接しているかなど様々な視点から物を見る学校の授業のようなものになっていきました。
また、人でない物が相手だと役者さんも相手のことをしっかり観察するようになるねという話になり、久野さんと役者さんは一歩前進する何かを掴んだようです。
何かになりきるためにお題をくださいと突然言われ、私はとっさに〝靴下〟と答えましたが役者さん2人は色々な視点から見事に対応してくれました。2人とも最初は何をするにも体の形がL字になっていて、なんとなく靴下を頭に思い浮かべているんだろうなというのが伝わってきました。頭に思い浮かべた何かの形というのも演技に影響してくるのかもしれないと思いついつい見入ってしまいました。今日はそれぞれ何かを掴んで持ち帰れた稽古になったのではと思います。次の稽古が楽しみです。
 2015-08-31  23:21  by 階 
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今晩は、役者の中村です。お久しぶりです。いえ、そうでもありませんでした。
稽古場日誌ということはなのですが、ここ数日の稽古で得た物が自分の中でかなり大きかったので、漠然とになりますが、得たものを書いておこうと思います。乱雑な文章、というか文章になってるのかもわからないレベルですがお許しください。
一昨日、昨日の稽古は七井さんがいらっしゃらなかったので森田さんと浅田さん、大谷さんと吉本さんに稽古ご一緒していただきました。(こんなに贅沢な経験は、後にも先にも中々無いのでは無いでしょうか。有り難い限りです。)
○その2回で
・ギャル(私はギャルをはき違えてると思いますが一応)
・土星人
・カニ
・靴下
でしてみました。
不思議なことですが、上二つでは「中村ならこうする」という自分の範疇を越えたもののフィルターを通したことにより、自分の言葉が自由になりました。
また、下の二つではえらく相手の一挙手一投足に全神経を総動員して見ていため、相手ときちんと話ができたように思います。
この、特に後者の「相手をしっかり見る」ということは、自分の中で非常に良い稽古でした。
同じくして、久野さんに「お客さんは別に気にしなくても良いよ」と言っていただいたことも大きかったように思います。この「お客さんの存在」については、今までもよく自問自答してたのですが、演出家さんというポジションの方から正面切って言葉にされたということが、今まで案外なく、何かが自分の中で外れたように思いました。
○「登場人物としての感じて話して生きてる(ということをする)私」と「役者としてお客さんに登場人物を表現をしようとする私」の二つの塩梅が難しいということを稽古中にぼやいたいたところ、その塩梅考えるものじゃあないのでは、という話になりました。
○「登場人物になろう、なったと表現をすること」を逆算している時点でそれはベクトルの向きが違う。登場人物、というか人間は何かから逆算して生きてない。進行形で生きてる。
例えば観客は観客になろうとして劇場に入ってきてない。劇を見に来て、それが誰かから見たとき始めて観客になる。
なのにそこで役者が「観客になろう」としたら、その意識がすでに回りから浮いてるのでは、ということについても稽古中で話しました。
○不思議なことで、演出さんやお客さんが「良かったね」と感じるときって、役者は何も考えてなかったり、今のなんか違うなと思ったりすることが多いです。
(多分私以外にもその経験がある人はいるかと)意識を空っぽに、または、全然違うことに気をとられてる役者の状態って案外、普段の人間の状態に近いのかなと、感じました。
○あと、「聞き方」にいう点をピックアップして、私達の普段と舞台の上での身体の状態についても考えました。
私たちが普段生活する上で、人の話を聞いてるときって、(私の場合特に)そんなコックリコックリ頷いて聞かないもので。
芝居でするコックリコックリとか、あれって、相手の話を聞いてるよ!って伝えるためのリアクションとしてのコックリコックリは、相手との対話だけど、「相手の話を私今聞いてます。ほら、コックリコックリって動作、話聞いてる時によくするでしょ」という役者としての(もしかすると無意識の)表現としてしてしまうと、それはお客さんからすると情報じゃなくなってしまう。
そのような話しました。
自我は消えない、というか、消す必要がない、どう付き合っていくかということを考えないといけないのではと、思いました。相手ありきの空間だということを忘れないよう、また、あまり今回得た物に縛られ過ぎないよう、幸い長期的に創ることができるので、柔軟に、今回得たものを使っていきたいと思います。
長くなりました。失礼します。
 2015-09-02  23:17  by 階 
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9月2日、本日京都にて稽古。
最初に、お互い適当な(自由な)感じでの台詞あわせで頭から最後まで通しをして、その後は久野さんからの提起で、おかれているシチュエーション(椅子がおいてある)、やキャラクターの特徴をある方向に特化させて(石、キザでクール、舞台監督など)演技をしてみるという稽古をしました。
再演はやはり、前回自分がやった事との向き合いというか闘い?だと感じました。与えられた状況で変化をつけているつもりでも、自分が拠り所にしている「台詞」は変わらないので、それをしゃべっている感覚が、前回の演技に引きずられている訳で。いろんなものが自分にくっついているのでしょう。残したほうがいいものもあるし、取っ払ってしまったほうがよいものもあるでしょう。
それらをどうやって感じながら稽古をしてゆくのか。
舞台に立っている2人は、ちょっと複雑な関係(演じている役、俳優個人、役を演じている自分等・・)を含みながら
相手を見つつ演技しているのではないかと。そこで出てくる変化する可能性を、掬ってゆく稽古にしたいです。
 2015-09-09  21:53  by 階 
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今晩はです。中村です。
昨日は大きな部屋ででの稽古でした。音の反響や空間の使い方が違うと、当然のことですが芝居も変わるようで。
今回の稽古では、前回現れた「劇場という場にそぐわない、そもそも演劇というジャンルが自分の中に無い人(岡崎さんと命名)」をしてみようということでしたが、なかなかその岡崎さんは現れず、次回以降の持ち越しとなりました。
代わりに、久野さんから色々やってみようということで、
・声を低くだす
・ネコ
・嫌いな人
など、様々な試みが出来ました。
また、台詞を言うなかで思ったことではないのですが、役者自身の体調や気分の影響についての話題が上がり、それについてもかんがえていました。
以前は、役者さんが役者自身の何かを舞台にのせることに違和感を持っていました。しかし、最近は、その情報もひとつの構成要素ではないかと思うようになりました。
例えば、登場人物は、相手と話をしています。では、役者は何をしているのか。多分役者も相手と対話をしています。その「相手」というのが、登場人物なのか役者なのか、また、登場人物の中に役者がいるのか、役者が登場人物を纏っているのか、この感覚は人それぞれだと思います。
私は、どちらともつかないのですが、少なくとも役者自身(の身体や気持ち)を切り離してするということより、この現場では、それらの状態がどのように作用するかを、決めつけずに見届けて受け止めることが大切なのでは無いかと考えました。
先ずは素直に。いきたいと思います。
 2015-09-09  22:44  by 階 
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9/8(水)曇り、台風通過。
今日の稽古内容は、「自分の言葉ではない、登場人物の言葉との折り合いのつけ方」と「相手を見て聞いて話すこと」でした。
台詞って普段は自分が使わない語尾だとか言い回しだとかが平気で出てきます。説明的な台詞であればなおのことです。では、外国語を取得する際にネイティヴに近づけようとする作業のように、台詞を日常会話に近づけるにはどうすればよいのでしょうか。
相手を見て聞いて話すことを舞台上で素直にやる為には、稽古場でいろいろ考えた上で様々な引き出しを用意する必要があります。これは多分刺激クラスを反応クラスにレベルを上げることと似ているのだと思います。例えば、「赤」という概念を説明する時にはどのようにすればよいでしょうか。実際に赤いものを指差してこの色だと言うのが手っ取り早いと思います。「イチゴを見せる」「赤い車を見せる」「コカ・コーラの缶を見せる」など。しかしこれでは「イチゴ=赤」「赤い車=赤」「コカ・コーラの缶=赤」ということしかわかりません。これが刺激クラスです。そしてこの刺激クラスが蓄積されて自分の中に「赤とはこのようなものか」と弁別できるようになってきます。ここでようやく、教わっていない「ポストの色が赤だ」ということが分かるようになります。これが反応クラスです。
つまり、答えの集合体を作ってしまえば、応用が利いて何が起こっても答えられるようになるということです。これは舞台上でも同じで、稽古とは引き出しの集合体を作ることなのではないかと考えています。
今日は、日常ではしないであろう癖を意識して直(治?)す作業もしました。諸江さん(役者)は指摘された癖をすぐ自覚できるところが本当にすごいと思いました。
森田
 2015-09-14  15:46  by 階 
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今日は、中村彩乃です。暑さも和らぎ、過ごしやすい気温になって参りました。如何御過ごしでしょうか。
先日の稽古は、京都で行いました。前回の稽古からあまりたっていなかったのですが、日数というか、一分でも時間たてば人間は当然のごとく何か変わるため、また違った状態で稽古が出来ました。
久野さんからお題をいただいての稽古は、
・劇場にこいつ来ねーだろうなというちょっと常識外れの人
をしてみました。 重要なのは、ここでの常識とは、世間一般でなく、演劇界での常識です。
「その人の常識」は、人それぞれの持ち合わせてる価値観によって変わるものでしょうから、自分の持ち得ない常識のもとで動くというのは自分の価値観を外れた動きにつながることになり、興味深いです。新しい発見の積み上げは、何処で使えるかわからないですから、大事にしたいと思います。
また、個人的な感覚ですが、脚本とそして久野さんの演出は、余白があります。自由とはちょっと違います。決まっている台詞(脚本)とそれを媒体にする役者との距離に、常に余白があるため、それを埋めるのに役者が自由になれるといいますか。その余白に何か私一人ががっちり作り込んだものを埋め込んでも面白くありませんし、そもそも型があるわけでないため、決め込むのは出来ません。久野さんの言葉や七井さんの芝居を受けて、どういう風に埋めようか、粘土のように捏ね繰り回していく過程が、この現場では必要なのかなと。
そんなことを考えました。
 2015-09-15  13:12  by 階 
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少し遅くなりましたが、9月10日の稽古場日記を。
この日の稽古も前回と同じように、お互いに台詞あわせをするところから入っていきました。
何回か通したり、返したりしているうちに、自分(七井)の反応や台詞の発語の仕方がちょっとずつ大仰な
ものになっていることに気がつきました(正確には稽古後久野さんと話して、より自覚したのですが)。
台詞はつっかえずに出てくるのに、中村さんの言葉と演技にかみ合っていないと言うか。
この現象は何なのでしょう。
おそらく、前回の「缶の階 客席編」での演技を、体が覚えていてその反応をなぞってしまっているのでは
ないか、と考えています。相手が発してくる台詞は同じでも、ニュアンスや体の状態、そもそも台詞を言っている
当人が違う人なのですから、前回と同じになるはずがないのです。
その辺までの微妙な差異を、きちんと汲み取ってゆくことが必要だと気づきました。
前とは違うものを・・・ と考えていたつもりでも、どうしても自分に残っているものを使ってしまうようです。
何を手がかりに変化や新鮮さを作ってゆくのか・・・。
とりあえず、台本が外国語が書かれている と言うような気持ちで読んでいこうと思っています。
 2015-09-22  01:45  by 階 
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こんばんは、吉本尚加です。
遅くなってしまったのですが、16日に京都で行われました稽古に参加して参りました。
~しながら喋ること、話すことの目的、その行動で生まれる構図、目的。
普段は意識なんてせずにしている様々なことが稽古場では浮き彫りになっていきます。
不思議なことにそれらは一度意識して近付こうとすればするほど遠ざかっていくようです。
それでは、ということで一度思い切り大げさにやってみてはどうかということになりました。
すると、それをそのまま続けていくうちにそこから受け取る印象がどんどんと異なっていきます。何だか台詞の一つ一つが、言葉が、観ていて「その人の体に馴染んでいっている」ようです。
また、そうしているうちに諸江さんにも変化が現れました。
久野さん曰く「今の大げさな方が先ほどまでの演技よりやわらかく感じる」とのこと。
それについてもその場にいた全員で理由を考えてみたのですが、
・楽しそうだから
・自分の身体がここにあるということについてポジティブに捉えられているから
・(次に何をするかについて考えているために)自分が喋る時のことを相手が話している間に考えているから
ではないか?という所から、
(喋らされているのではなく、)自分で喋っている感じがするから言葉や体を裏切っている感が無い
という所にたどり着きました。
以前、客席編の稽古場で「とても良かった役者に今何をしていたの?と聞くと大抵『何も考えていなかった』と返される」、というような話になったことがありました。
私達は普段夢中で生きています。「こんな風に喋ってやろう」「これをしたら次はああいう風に動こう」とか考えながら会話したり動いたりすることなんてほとんど無いのではないか、と思います。
今回の稽古で改めてそのことを実感すると共に、人間の体というものはとても正直なものなのだなと再認識しました。
普段と違ったことをその上で自然にやろうとした時の違和感のようなものも、発信する側が伝えることを楽しんでいるときもまっすぐに受け手にそのことを伝えてくるのは何よりもまず発信する側の体なのだなと。
そうして諸江さんの起こされる化学反応が今後どのように作用していくのか、楽しみに見届けたいと思います。
 2015-09-28  23:16  by 階 
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今晩は、中村彩乃です。
今宵はスーパームーンのようです。
遅くなりましたが、先日は久々の稽古でした。日が空いた稽古は面白いもので。良い意味で、前回の稽古を引きずらずにリセット出来る(反省は勿論しますが)ため、新しいことに挑戦しやすく感じます。ただ、そのためには準備が大切で。準備…。固めてしまわずに自由でいるための準備といいますか。それを蔑ろにしたくないなと思います。
稽古の中盤、私の「最近の目下の課題は、受けることです!」と言ったことに関して、少し受けの芝居について話しました。
それというのも、芝居中に、相手の台詞に被して、自分本意な芝居(行動)をしてしまいまして。そこから色々受けについて考えました。
見る、聞く、感じる等々、様々な感覚はあります。それらのバランスというか、それらを受けて、自分の芝居(行動)があって相手に返すまで、それで初めて「受け」なのかなと。
少し現段階で、この件について考えが纏まってないのと、もう少し考えたいこともあり、いつもより、より纏まりのない文章になりましたが、
今後の稽古(というか、演劇をするうえ)で少ずつ重ねていきたい課題というか、目標であります。
なんとなく、芝居を「積む」という感覚に、最近なってきました。
 2015-10-08  00:25  by 階 
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10月6日 久しぶりに客席編の稽古がありました。
久しぶりすぎて色々と不安だったのですが、自分が思っていたよりいい稽古になりました。
体の状態が、いつもと違いました。
今までは、脱力するために努力していた(ぐにゃぐにゃする)のですが、今回は体はしっかりしているのに脱力している(感覚だった)。
そして、相手を見ることに集中する。
知覚の始まりは目 だと思っているのだが、目から入る情報に集中すると、相手の微細な変化に自分が反応しているのが分かる。
表現するために見るのではなく、自分を確かめるために見る、とでも言うか。
再演にふさわしく?、今までになかった人物像が出てきました。
そういえば中村さんも、いつもと違う目をして演技をしていた。

 2015-10-11  11:37  by 階 
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今日は、最近は秋も深まり、少しずつ冬服なんかも着だすような季節になってまいりました。
さて、稽古場日誌です。
ところで私は文章力が非常に乏しいです。起きたことを文章に表現する力が弱く、いつも四苦八苦しながら文章にするのですが(その作業は大切ですので精々苦しめ自分よ、と思います)。
此度の稽古で起きたことを文章にまとめるのがなかなか難しいです。
明確に言えることは、私は稽古場で転げ回っていたこと、見てくださってたお三方が非常に楽しそうに笑ってらっしゃったこと、七井さんが泰然自若と場を過ごしてらっしゃったことです。
明確に言えないことは、
・役者の、役者である前の個の状態(体調や心持ちや気分)の作用の働き
・準備しないための準備をする
・固定しないところ(柔軟に動くところ)と、自分の中から生まれたものを辿って働きかける、この二つの境
・「良い役者」や「良い人」の表現にみられる「良い」の可能性
・脚本から摘出できる事実(その脚本の世界の中の事実?)を辿ることが必要であること。その辿る最中で自由に動くこと
等です。
一日置けば考えもまとまるとおもったのですが、どうも釈然とせず、まとめることが出来ませんので、この足場の固まらない状態を一回許してやろう(諦めでなく)と思いました。
余談ですが、稽古場にいらっしゃった大石さんは、言葉にするのがとても丁寧で上手く、凄いと思いました。
 2015-10-13  21:12  by 階 
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久しぶりに稽古場日記を書かせて頂きます。
と書いたら、前回の稽古場日記も「久しぶりに」と書いていました。
何故なんでしょう。
本日は、今回の本番を行うパシフィックシアターで劇場を借りての稽古でした。
演技することと、演技の行われる場所は結構親密な関係にあると思っていまして、同じ話でも場所が変われば別のものになるのではないかと感じます。
何故なんでしょう。
毎回、台詞合わせのような状態から、緩やかに立ち稽古に入って行けるのがとても面白い稽古場です。
稽古場と劇場では、言葉を出す時の感覚もちがうのでそれを確かめながらの稽古です。
自分は何が出来ている(と思っているのか)、何が出来ていない(と思っているのか)、何をするべき(と考えているのか)
と言うような事を検証しながら。
共演者の中村さんは、劇場に対して違和感がない(と言うような旨の言葉)と言ってはりました。
また今度、聞いてみようと思います。
七井
 2015-10-16  21:15  by 階 
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こんばんは、浅田真那です。
少し遅くなりましたが、10月16日は京都で客席編の稽古でした。
この日の稽古場にはどっしりとした座り心地の良い椅子がたくさんあり、それらで簡単な客席を作って舞台に見立て、稽古をしました。
この日、中村さんの演技が凄く毅然としていて、今まで「劇場にあまり来たことのない人」だった役が、「劇場にあまり来たことはないけど何かのために劇場へ来た人」になっていました。
本人に理由を聞いても、何が理由であるのかははっきりとはわかりません。(卒業論文で演劇の本をたくさん読んでいること、読んだ演劇の本に凄く勉強になることが書かれていたことなどはあったようです)
こういうことは七井さんにもあり、七井さんは時々本当に人間が違うのではないかと思うほど、演技中に豹変する時があります。(久野さんはこの状態の七井さんを「魔術がかっている」と言います)
Recycle缶の階の稽古場では、毎回凄まじい勢いで色んなことが変化していきます。
「今これだけ演技が変わったんだから、もうこれ以上変わることなんてないだろう」
……というレベルの変化がたった3時間の稽古の中で何度も起こるのです。
それは"進化"とか"退化"とか、そんな言葉では定められるようなものではありません。
良いか悪いかなんて関係なくて、変わっていくことに意味があるんだ、というような変化の仕方をしていきます。
七井さんの演技が変わったら、中村さんの演技が変わっていって、また七井さんもそれに変えられていく。そうして作品は予想を裏切って、言葉の額縁に収まりきらない意味を持つようになる……。
常に新しい今が生まれる、凄い現場に立ち会わせてもらっているな、といつも鳥肌がたちます。
 2015-10-23  19:13  by 階 
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今晩は。中村です
10月も終わろうとしていますが、いかがお過ごしでしょうか。気がつけば今年も終わり、光陰矢の如し、いやはや恐ろしいです。
さて、昨日は劇場での稽古でした。
珍しく、まず、通し稽古をしました。
先日も書いたような気がしますが、物語は常に進行するものです。終わるから始まるのでなく、始まるため終わります。当然のことようですが、しかし、俳優(または、公演の参加者)は、物語の終わり・経過・起きうる展開を「台本を読む」という行為を経て、既に知っています。この俳優と登場人物の間に生じる矛盾というか事象への認識の齟齬というか、の摺り合わせがむずかしく、また面白い部分でありまして。
自分の言葉や行動は、全て自分以外の何か(相手や環境)から、触発されて生まれるため、これを蔑ろにすると、会話ではなく、芝居は独りよがりのものになります。(と、私は思います)そのため、常に目の前の現象に対応しなければいけません。
ただ、昨日の稽古場では、登場人物のバックボーンといいますか、内的な、価値観の感覚というか、その登場人物の積み重ね(それまでの人生)といったものの扱いについて、考えさせられました。
登場人物について、台本から得られる情報をもとに、想像をします。例えば、その登場人物が、劇中で出てくるチケットを、どこで、誰と、何時に、買ったのか等々。
それらのことに思いを巡らせることは、なかなか面白いし得られるものはあると思います。
しかし、これは独りよがりの芝居と紙一重、という危険もあります。
この、稽古時間以外に俳優個人が創るものに固執しすぎると、「稽古」という折角の、自分以外の人との価値の摺り合わせの場の意味がなくなってしまいます。
先日出た「準備しないための準備」という言葉は、とても自分の中にしっくりしていて。稽古場で自由に芝居をするための準備をしつつ、それに寄りかからず、柔軟に在るための加減を、自分、また久野さんや七井さんとしていきたいと思います。
私自身は思慮浅く、恐らく、比較的″直感的に物事をみる″ことを好意的に感じるタイプの者なのですが、
缶の階(この脚本)では「なんか、演劇たのしー!」という感覚的な楽しみかたで終わるより、何が起こったのか・何をしたのかを考え、思考を重ねる方が、より楽しめるなと、極々個人的に感じます。
あと、久野さんの言葉を受けての、七井さんのとある台詞の芝居を見て、素で笑ってしまいました。まだまだ修業が足りません。
長くなりました。それでは、失礼しま
 2015-10-28  08:53  by 階 
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七井です。
10月ラストを飾る4連続稽古の初日でした。
10月も終わるのだから、何か課題を設定してそれを追及しよう、と久野さんと話をしました。
課題、課題、、課題、、、
結局考えても全体と部分を切り離すことは出来ないなあと(私は)感じ、いつも通り冒頭から丁寧に通してゆきました。
結果、この日の課題は「登場人物の目的の設定」になったと(稽古後に)思いました。
稽古の最後に全体を通しました。自分でも言うのもおかしいですが、非常に面白かった。
今までの稽古で出てこなかった反応がお互いに生まれて、久野さんの書かれている台詞の意味がとてもクリアになり、自分の中でも新しい解釈が出てきました。
間を取らないこと。お互いの会話があっちこっちを向いて成立しないこと。相手に注目すること。
今回再演をするにあたって、前回と違うものを と漠然と考えていましたが、今回の稽古でその一端が少し見えたと思います。
また次に稽古をするときは、同じようには行かないでしょう。同じ事を繰り返しても面白くないので、常に変化できる状態 を探ってゆきます。

 2015-10-28  23:50  by 階 
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今晩は、中村です。今晩は、満月です。
今日は客席編の稽古でした。
昨日の稽古では、個人的に「登場人物の目的を明確にしよう」と思って稽古に望んだのですが、それが思いの外、芝居に影響しました。ので、昨日に捕らわれるのではありませんが、今日も、個人的に、(登場人物の)目的を(中村・役者の)意識の何処かに起きつつ、稽古をしてみました。
また、今日の稽古では、言うべきものがある安定した状態と、その場その場に対応して、流動的に在ろうとする不安定さ、について考えました。
…以下の文は、この稽古場から感じた「芝居について」のことであって、全ての舞台芸術に当てはまるとは思ってません。
台本というのは、変わりません。
紙に書かれた文字という媒体で作者から生まれたもので、ある日突然頁を捲ったら台詞が変わってたっ!なんて、勿論ありません。(改編という形はありますが)
しかし、一方、人間(演出家、俳優、スタッフ、観客)は、常に良くも悪くも不安定です。それが、舞台の魅力であると私は思います。が、ただ、その不安定さでは、あまりに拠り所がありません。
そのために、安定した存在である台本は、大きな軸になります。
俳優は、台本の言葉を読みます。台本から得た情報は、言わずもがな、大切な要素になります。
例えば、その物語の中で、どう呼吸(=存在)をすれば良いか、という、ある種…生き方・在り方と言いますか、を打ち出してくれる一端を担っていると思います。
また、一人で台本を読んでいて気づけないことに、稽古場で、はたと気づくことがあります。その気付き、その場での自分(≒登場人物)の心の琴線に触れた震えを積み上げて、「台本」という紙に書かれた文字という媒体から、その場にいる人が立ち上げたものが、結果、「芝居」と呼ばれるのではないかな、と思います。
凄い感覚的なことを多く書いてしまいました。
自分の整理も含め、凄いざっくりいうと、今日稽古では、
安定を目指して生まれたものは、何処か面白味が物足りないし、寂しい。不安定なことを許して、その代わり、しっかりその場で起きたことを受け止めていくことが大切なのでは
、ということであった、ような、感じがします。私の受け取り方では。
文章にすることは、大切ですが、同時に、むずかしいですね。
 2015-10-29  22:09  by 階 
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29日は、京都の東山青少年活動センターという場所で行いました。
この場所は昔私が演劇の稽古に使ったりしていたので、久しぶりに行って懐かしい気持ちになりました。
去年の缶の階でもそうだったのですが、劇の冒頭(の入り方)が大事だ と言う話にrecycle缶の階でもなっています。
そのせいもあってか、劇の途中から稽古をすると積み重なっているものが少なく(感じるので)思うように行きません。
(ですが、途中からの稽古で重なったもので冒頭が変わるということも有り得るわけで、、)
なので、今回は冒頭での二人の緊張感を生み出すにはどうやって二人が出会えばよいのか、と言うことを色々ためしながら稽古をしました。
まったく別の方向を向いた人間が、唐突に、(ある種)特異な環境で出会ったら、互いにどのように反応するのか。
最近キーワードになっている「不安定さ」も、この辺に絡んできている気がします。
「不安定さ」は、「関係の不安定さ」なのかもしれません。
では、主体としての俳優はそこにどう居るべきなのでしょうか。
 2015-10-30  22:33  by 階 
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冬は暖を取るために缶珈琲を買います。こんばんは、浅田真那です。
10月30日は中京青少年活動センターにて客席編の稽古を行いました。
私はほぼ2週間ぶりの参加だったのですが、久野さん、七井さん、中村さんたちにとっては4日連続稽古の最終日。
しかもこの日は早速、稽古場見学募集のページを見たお客さまが1人いらっしゃって、少し緊張しながら稽古場に向かいました。
稽古の最初は最近課題になっていたらしい冒頭での男(七井さん)が女(中村さん)に声をかけるシーンを何回もやりました。
久野さんからの「これでもかというくらい大げさに声をかけてみては?」という提案に従い、七井さんは「振り向きざまに手をバァっと広げて相手に声をかける」というとても不自然な動きを試しておられました。
すると、男にとっては理由のある行動でも、事情がわからない女にとっては不審としか思えない行動をすることで、相手に対する危機感を覚え、相手のすることに関心を持つためか芝居がどんどん動いていきます。
この始まりから何かを掴んだ様子のお2人は、通し稽古に入っていきました。
……結論から言うと、本当に、とてもいい通し稽古になっていました。
話を続けようする男は女に話の邪魔をされてうまく話が続けられなくなるたびに、また女は自分の想定していたことが男によって裏切られていくたびに、どんどんお芝居が不安定になっていきます。
不安定というのは悪い意味ではなくて、自分が思っていた5分後、3秒後が全て裏切られ、それに気づいた時に自分の中の状況が再構成されるということ。
普通の会話では当たり前のことでも、喋る台詞も結末も決まっているお芝居でそれらを行うことのなんと難しいことか。
そんな難しいことをまだ何もかもが完璧だったわけではなくても、お2人は見事に表現していっていました。
久野さん曰く、「今日は連続稽古の中でも特に良かった」とのこと。
それでもまだ変えていけるところ、特に台詞と台詞の間の間などについては課題もあったりして、これからの稽古もまだまだ変化していく余地がありそうです。
本番が迫ってくる中、まだまだ楽しみな客席編の稽古でした。
 2015-11-02  10:51  by 階 
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11月に突入しました。今年の7月から始まった稽古も、4ヶ月近く経ち 本番までの残りも2ヶ月です。
本日も変わらず冒頭の部分を丹念に稽古します。
稽古の成果か、「二人の間でのやり取りが成立する割合」が高くなってきたと思います。
所謂土台が出来てきたとでも言うのでしょうか。
稽古では毎回同じ台詞をしゃべるのですが、その台詞の中身(どういった状態の相手に、どういったニュアンスで言葉をかけるのか等)は、毎回微妙に違います。稽古によっては、まったく違う場合もあります。
稽古場では、その変化する可能性を出来る限り広げて、久野さんの言葉(台詞)を色んな角度から検討しています。
話す言葉は変わらない。では変化しているのはなにかと言うと、出演している俳優二人のからだなのかな、と思います。
自分のからだがどう在ったら、言葉をしゃべれるのか。稽古はそんな事を確認してゆく作業でもあります。
本日の稽古では、久野さんからスローモーションのような演技になっていると言われました。
これも、言葉と自分のからだの切り離しが出来つつあるからなのかも知れません。
 2015-11-06  02:36  by 階 
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こんばんは。寝る前にちょっと足が寒くて靴下を履く季節になりましたね。
お初にお目にかかります、制作助手を務めております二澤真帆でございます。
ちょっと言葉が古めかしいのはご愛嬌。
はじめて稽古場にお邪魔しました。
公演に参加してから数ヶ月経過、今日、はじめてどんなお芝居が創られているか見ることができたのです。
稽古場の扉を開けるまでどきどき動悸。劇場へ観劇に行くのかという具合に興奮しておりました。

静かでした。
空気の動きが伝わってくるような、そんな印象を受けました。
七井さんがアクションを起こす、中村さんが反応する。
中村さんが台詞を発する、七井さんが言葉を返す。
その空気の動き。それぞれの役者さんの作り出す空気の流れ。
丁寧に言葉を伝えるという行為は、何より力が必要であるような気がします。
気力。胆力。そのようなもの。
粘り強さ。勇気。そう言い換えてもいいかもしれない。
適当な言葉を発しておいて、うやむやにして誤魔化すほうが楽だから。大体のことが伝わればいいと、伝えることの難しさは、普段の生活ではあまり意識されないはず。
今回の稽古場では、そういった力強さを感じました。
白鳥は静かに泳いでいるように見えて、水面下では激しく水を掻いているそうな。
相手を見つめ、間合いを読みとり、葛藤と闘い、次の手を繰り出す。
剣道、将棋、囲碁……1対1で戦う競技(?)に似た空気感でした。
劇場でこの戦いがどんなふうに発展するのか、今から観客気分で楽しみになってしまいます。
ぜひ足をお運びください。
稽古場見学も受け付けています!
 2015-11-06  03:21  by 階 
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今晩は、中村彩乃です。先日卒業論文を稽古場日誌のテイストで書いてしまい、たしなめられました。
今回の稽古では、劇場で通し稽古をしました。(仕事の早い二澤さんにブログを先越されたので一昨日の稽古になります。すみません)
先日、「芝居を積む」という表現がしっくりくると、書いたような気がしますが、まさにそれだな、と、通し稽古をする度に、感じます。
台詞を言うためには、その台詞を独立したものではどうもいけません。それまでの積みあげがなければ、どこかで聞いたような節回しになったり、しっくりとこない、上っ面な状態になります。
また、それは自分の台詞だけでなく、相手との関係も、同じくして積み上げていくものだと思います。
イメージとしては…なんだろう、囲碁や将棋やオセロといいますか。幾通りも戦法があって、同じ対局はまず無い、というところでしょうか。(そう言えば最近稽古場でよく囲碁の話題が出ています)
あと、今までは積み上げること事態を重視していましたが、最近は少しずつ「何を積み上げるか」といったことも、稽古場で話題になるようになりました。
久野さんの言葉がけは、「こうして」といった指示というより、例えば提案であったり、こう見えてた・聞こえてたという起こった事実を教えてくれることであったり、と、非常に芝居の在り方に対して鷹揚で、そこが面白いと私は感じます。いただいた言葉を受けて、そこから俳優がどう変化するか。
出来るだけ柔軟に、素直に現象を受け入れつつ、どこかで、この物語のなかでしっかり通す軸(芯?)のようなものを、探っていきたいと思います。
 2015-11-07  22:35  by 階 
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遅くなりましたが、11月7日は約2ヶ月ぶりに舞台編の稽古をおこないました。
私は18時からの参加でしたが、久野さん、太田さん、諸江さんの3人は14時から稽古をしており、計7時間のロングタイム稽古です。
稽古時間としては長め、しかも連日稽古の久野さん、東京から帰阪された太田さんに奈良帰りの諸江さん。疲れていてもおかしくないはずなのに、私が来た時には3人ともとても楽しそうに、稽古をしておられました。
客席編でもそうですが、やはりお芝居の冒頭の部分が決まらなければ先に進めないとのことで、最初の独白のところ、そして缶コーヒーがヒーローに声をかけるところを重点的に稽古しました。
舞台編の稽古場の特徴は、とにかく会話量が多いこと。
太田さんも諸江さんもとてもお話が上手くて、自分の考えや演技の方法を言葉に出来る方々なので、自然と稽古もディスカッションみたいになっていきます。
久野さんはお2人を「本当によく喋るでしょ?」と仰いますが、言っていることがとてもわかりやすいので、聞いていて苦にならない、どころかすごく為になるのです。
例えば久野さんが「こういう風にする為にはどうしたらいいの?」という質問をすれば、「それは〜〜だから、こうしてみる」という答えが明確に返ってくる。
しかもその返答にはユーモアも混ざっていて、笑いも絶えない。
観ているだけなのに、何故かちょっとした演劇論の講義を受けている気持ちになります。(芸大出身の私から見ても、大学の授業並みに為になる話がたくさん聞ける稽古場だと思います。)
最近は客席編の稽古が多かったので、この舞台編稽古での独特な空気はとても面白く感じました。
約7時間した稽古の後には、全員でビールを飲みながら、ここでも真剣な演劇の話が続きます。
客席編ももちろんですが、本当に演劇が好きな人たちの集まりなんだなぁとしみじみ思う、舞台編の稽古でした。
 2015-11-12  11:53  by 階 
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11/11(水)
今日の稽古は、身体の緊張を如何にして逃がすか、ということに焦点を当てていたように思います。上演中立ちっぱなしはしんどい、しかし座ると段取りが発生してしまう、お互いの距離感、身体の駆け引き、といったことを探り探り行いました。
「日常の癖」が出た時、不自然に映ることがあります。当人にとっては何ら違和感のないものであっても、その人特有の癖である場合は観る人は気になるようです。
久しぶりに稽古に参加したのですが、前回演った時と全く役の立場が変わっていて本当に不思議でした。
 2015-11-12  16:19  by 階 
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今日は。中村彩乃です。
ゼミ室より失礼します。
先日の客席編稽古では、初めから芝居をしつつ、久野さんの意向で所々中断して、それまでの稽古を検討し、また再開する、といった流れで稽古をしていました。
今回は、何となく七井さん(椅子を並べる男という登場人物)の様子がいつもと違いました。いや、同じ時など一度もないのですが、「違うなぁ」と、芝居中に明確に認識が起こることは、あまり無いことなので。自分でないひとのアプローチが変わることによって、自分も変わり、そこにまた新しい解釈や可能性が生まれる瞬間は、個人的に、俳優をしてる上で楽しみな瞬間であります。
以前、ある人に「稽古では俳優は色々やれ。稽古中はプレゼンをして、精々怒られたら良い」と言われたことがありまして、私は、結構この考え方を興味深く思います。
プレゼンという言葉では語弊を生むかもしれませんが、俳優(参加者とも言うかもしれません)は1+1は2以上の可能性を探っていける立場でありたいと思います。
稽古中の役割というか、目的は、現場によって異なります。それは演出家の意向であったり、脚本の趣向であったり、共演者との擦り合わせであったり、と。
上記のように、演技のプレゼンをすることが求められる場もあれば、逆に、演出家の意向にまずは従事して後に自分のなかに落としていく場もあります。(どちらが良い悪いでなく)
このRecycle缶の階の現場は、何か、不思議な現場であるような気がします。
イメージとしては、脚本が作品の枠ぶちになるのでなく、脚本が作品の種、この例えで言うと、絵具…でしょうか、になる要素と言いますか。
脚本の言葉が、私の外にあるものでなく、自分の内に存在している感覚があります。
考えること、検証すること、積み上げていくことを、繰返し繰返し繰返すこと。本番が終わるまで、続けるべきことであるし、その繰返すことが、とても面白く思います。
 2015-11-13  00:10  by 階 
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こんばんは。本日も客席編の稽古でした。
演劇の稽古と言うのは、参加している各々の都合もありまして、大抵夜に行われることが多いです。
というのも昼間は仕事をしていたりなどと、なかなか演劇の稽古に専従できない環境でやっているからでもあります。
そうなると、仕事終わりに稽古場に直行して稽古 と言うシチュエーションも多くなります。
その場合、仕事をしていた自分のからだ(仕事をしていた自分)を引きずって稽古に望むことになります。
演劇の台詞は、人間が喋るので喋る人のそのときの状態がどうしても反映されます。
なので、稽古場に入ったら雑音のないフラットな状態(思ったことがからだに反映されて演技が出来る状態)になるために、ストレッチをしたり発声練習をしたりします。
今日は仕事終わりで、それほど疲労もなく稽古場に行きました。準備をしている時に、からだが大分脱力していたので今日は良い稽古に出来るかもしれないと思いながら稽古に望みました。脱力して、自分のしたいことをやりすぎ、逆に緊張してしまった稽古だったと思います。
自分のからだの状態と、良い演技 の関係は、一筋縄ではいかないようです。
その探求も含めての稽古です。
 2015-11-13  23:04  by 階 
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今晩は、中村です。ところで、ビスコには乳酸菌が一袋一億個も入ってるそうです。今私の体内には三億個の乳酸菌がいますので、頑張って働いて欲しいです。
すみません、関係無い話でした。
今日の稽古は、非常に発見が多いものでした。これはちょっと、文章にしていくのは、散乱しそうなので、いつかの如く箇条書きにて失礼します。
まず、稽古場で出た発見です。
・台詞の間をつめることによって、相手の音をより素直に、少ない誤差で受けれるため、一人よがりな言葉(音程)でなくなる可能性が高くなる。変に間を作るとそれは相手との対話でなく、自分の中で生産されたものになる。
・相槌をうってる間は、主導権は握られてない。反論しようとすると、主導権は奪われやすくなる。
・相手がふんわりしてたら、もう片方の輪郭がハッキリするという現象が、
何度かあった。相手に伝えよう、とか、聞いてもらいたいとか、そういう気持ちが強いから、輪郭がハッキリするのではないか。(バランスが良いのが一番だけど)
以下は、私の反省というか、稽古を踏まえて考えたことです。個人的なところが多いです。
・私は場所が変わったり、人が変わったりすると、自分の思ってる範疇の3倍くらい、何かしらの影響を受けるタイプであること。
・稽古場所が変わることで距離感が変わる、距離感が変わることで声の出し方、意識のあり方・向け方が変わる、すると芝居も変わること。
・「今演劇出来てるぞ」みたいな気持ちの(そんな自信満々ではないにしろ、少なからず、そんな感じになってるだろう)ときは、だいたい外から見ると出来てない。一人よがりなものになってること。
・受け身なりすぎてもいかんし、放とうとし過ぎてもいかんから、その微調節を一瞬一瞬でする。
・稽古で起きたことを積み重ね・経験として大事にするのは大切だけど、劇中(演技中)では、無意識下で確かに積まれてると信じて、引きずられないようにする。
上手くはまるときは勿論楽しいですが、今日のように、ストンとはまらない日も、上記のように得るものは多く、稽古は楽しいです。
個人的に、演劇は楽しいと思います。
 2015-11-16  08:32  by 階 
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16日の稽古は引っかかりの多いものだった。
はじめに冒頭から劇の途中まで通したのですが、
・悪くは無いけど話がスルスル展開しすぎている
・相手の状態を丸ごと受け止めて、それにリアクションする事ができていない
等の話が出ました。
確かに通している時に、相手に集中しようと必死で(つまり集中できていなかったと言うこと)、全体的な視野が
せまくなって居ました。
稽古を見ていた浅田さんからは、「二人とも怖かった」と言う言葉をもらいました。
これも恐らくお互いに対峙することに集中しすぎた結果だと思います。
もちろんこれくらいの集中度で交わされるべきお芝居もあります。
ですが、今回の客席編ではそのテンポではなく、もっと緩いところがあったり、非常に集中したりと、「次に何が起こるのか
分からない」と言うテンポで作ろうとしています。
そのためには何をどうしたら良いのか。。
一つは稽古前の自分の準備をちゃんとする、でした。
身体の調子が良くないな、と思うときほど入念にストレッチや発声練習を行うべきなのでしょう。
実際昨日の稽古時に、声が出にくいことが意識に上ってしまい、それが妨げになった部分もあります。
自分の調子が良くない時に、どれだけのことが出来るか。
自立的に演技すると言うのはそういうことなのかもしれません。
 2015-11-19  10:49  by 階 
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今日は、中村です。
最近雨ばかりですが、いかがお過ごしでしょうか。
さて、前の稽古は、劇場稽古でした。
先日、私は、場所が変わることで無意識のうちの影響が結構あることがわかり、個人的にはその事も意識した稽古となりました。
比較的今回は新しいアプローチが出た現場のように思います。
また、相手の芝居を受ける、ということに関しても、今一度再考しなければならないように思いました。
「受ける」とは、まあ文字通り相手の芝居をしっかり見て(感じて)、ということなのですが、「受ける=同じテンポ・音の高さ・雰囲気で返すこと」ではありません。受け止めたものと似たものを返すことは比較的やり易いのですが、それでは複数の人間がやり取りをする醍醐味が減ってしまうのではないでしょうか。
しかも、殊更この物語の登場人物はトムとジェリー的な(「トムとジェリー」とうったら、変換で「トムとjelly」と出ました。どうしてjellyだけ英語なんでしょう。)関係と言いますか。
端々で自分の主張と目的をぶつけあう物語ため、そこで起きるすれ違いの面白さですとか、発見を、俳優という身体を通して表現したく思います。そのために、「芝居を受けるけど、その受けたものをアウトプットする瞬間に、何を思うのか、どう出力するのか」を今後とも捏ねていきたいと思います。
あと、余談ですが、なんば駅から花園町、そして歩いて劇場に、と言った道のりで、少し一人で積む作業をしてみました。これは以外と他の稽古場でも使えるかもしれません。
稽古はどこからが稽古何でしょう。
 2015-11-19  23:49  by 階 
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今日は舞台編の自主練習でした。
目標はいかに相手と会話をするのか。
久野さんは人が普通に会話してるときは、「ぬるっと」言葉が出てくるよねと言ってました。
言葉の感覚はわかるのですが、それを舞台で起こそうとすると途端に身体とのギャップが産まれます。
そのギャップを少しずつすり合わせる、そんな練習でした。
あと、僕は人と話をするときに共有したいのだと感じたのも面白い発見でした。
まだまだ発見出来るって、いいことですね。
諸江翔大朗
 2015-11-20  10:56  by 階 
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11月20日はパシフィックシアターで客席編の稽古でした。
劇場での稽古なだけあって、客席を4列ほど作り、バミリをして、いつもよりは本番に近い状態で稽古をすることができました。
また、この日は昼過ぎから新聞記者さん、稽古場見学の方が3人もいらっしゃって、とても賑やかな稽古になりました。
七井さんも中村さんもアップをしている時からとても集中していて、立ち稽古に入ってもそれらは継続されていました。
七井さんの言葉の最後まで丁寧に読まれる台詞はスピード感を伴って更に洗練されたものになり、
中村さん演じる女も、言葉にされている言葉以外の「台詞中の嘘」がどんどん切実さを増していて、観ているだけでとても切なくなります。
そんなお二人を観ていると、喋っている言葉に付随する演技や、「私、今こんなことを考えている演技しているんです」という役者側の気遣いが無いほうが、実はあらゆる演技の可能性を秘めているのではないかな、と思えます。凄く、面白いです。
これだけたくさんの方が一度に稽古場にいらっしゃるのは今回が初めてで、役者さんたちが緊張してしまったり、稽古に集中出来なかったりするのではないかと心配していましたが、それは杞憂でした。
観ている人がいるということは、「劇が劇になる過程の最後の部分」を常に体感していることのように思います。
誰かが観ているということは、それだけで役者さんたちの劇を作る過程の助けになることだと思うのです。
本番が近づいても、稽古はまだまだ続きます。
稽古場見学も随時受付中です。
静かだけどめまぐるしいこの稽古場を是非色んな人に観てもらいたい(もちろん本番も観てもらいたい!)、そう思っています。
 2015-11-23  00:09  by 階 
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こんばんは。
少し遅れてしまいましたが、23日の稽古日誌です。
23日は舞台編と客席編の役者が全員そろっての稽古でした。
私が稽古場に行った時には、太田さんと諸江くんが舞台編の稽古の真っ最中でした。
劇の終盤にかけてのシーンをやっていたのですが、去年劇場で見ていたものとはやはり成熟度?が違っていました。
二人とも余裕があるというか、舞台上(稽古場ですが)での居方が違っていました。
勿論再演という事で稽古を重ねていることもあるのは勿論ですが、1年間という個々の時間の積み重ねが、その人の立ち振る舞いに影響するのだなと、気づかされました。そういうことを目の当たりにすることが無いので、「再演」についても色々と考えさせられました。
客席編の稽古は、中村さんとのやり取りがあまりうまくはいきませんでした。お互いに集中はしていたと思うのですが、稽古後の検証で「集中する状態を作ることに専念しすぎていたのでは」と言う考察が出てきました。つまり、言葉や動きで相手を動かしてゆく働きかけが無かったのではないか、と言うことです。今までの客席編の稽古の傾向がその方向に向いていたのは確かだと思います。なのでこれからは、物語をどう語りたいのか・自分たちが何をしたいのか(を観ている人に伝える?)を考える稽古になる気がしています。
 2015-11-26  01:48  by 階 
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11/24(火)の稽古。
メロディラインが固定化してしまっていること。一方がポンプの役割になると、もう一方が機能しなくなること。考えすぎること。意図や戦略を持つこと。キャラクターに囚われ過ぎないこと。制限を加えること。
稽古前半の課題や取り組みは以上のようなことでした。
そして後半、いままでやってきたことを一度奥にしまって、本番ではNGかもしれないことまでやっても良い、やりすぎるくらいにやりましょうといって通しをしました。
前半の課題が嘘のようにほとんど解消されていました。そして役者2人がとても楽しそうでした。表情も柔らかく生き生きと演っておられました。観ていた自分は、羨ましさと心の底から演劇やりたいという思いでいっぱいでした。
帰り道七井さんが、役に入りながらも足の裏のリアリティを感じていれば、コントロールができるとおっしゃっていました。また詳しくお話を聞こうと思います。
 2015-11-26  18:33  by 階 
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今日は。中村です。
11月はとても暖かく過ごしやすい日々が続きましたが、そろそろサボってた冬が、仕事をし始めるようです。しなくて良いのに。しかも京都の冬は釈迦力に頑張りやがりますので、大変です。しなくて良いのに。
さて、客席編の稽古でした。
ここ数日、私はえらく単調な芝居になっていました。自覚があり、台詞のフレーズが固まってきたというか、「この音で入ってこの音で抜ける」、という機械的な芝居になってしまっていました。ある程度起こる現象が固まってきたということにも関連していると思います。一々に予測がつく、といいますか。
このような状態に陥ったとき、「まずい、なんとかせねば」と思えば思うほど泥に沈んでいくケースが多く、例に漏れず私もまんまと顎下あたりまで沈んでいました。
この状態から抜け出すには、ということで、
・目をつぶる
・空気椅子をする
・間をつめる
という、あれやこれやをさせてもらいました。
また、七井さんの方にも、久野さんから「普段しないことをして良い。相手を蹴っても、火を吐いても(これは静かに衝撃的でした)何しても良いですよ」という言葉かけがありました。
結果、それまでのダメ出しが殆ど解消される(完全な芝居、という意味ではありません)通しになりました。
芝居をしてる途中なら未だしも、終わった後に何か物凄い感情が押し寄せてきたのは、稀有な経験でした。押し寄せてきた感情の正体は未だにわかりません。
台本という言うべき台詞や、舞台といった、外部の媒体はあるのはあるのです。が、その媒体を足掛かりに俳優が何かを立ち上げるのは、途方もなく大変で、とんでもなく難しいことで、「そんな簡単なもんじゃないぞ」と、ぶん殴られた感覚です。
通しの後、具体的なこととしては「間を開けたら自分だけの言葉になるから、いかんね」「まだ一ヶ月あるから、色んなことを試さないと」「言葉が生まれやすい身体の在り方って大切だね」といったことがあがりました。
この稽古をなぞってはいけません。
「この稽古をなぞらないぞ!!」という意識も結局その稽古に引き摺られているため、いけません。何やら禅問答のようですが、常に何か蠢く気配をつくりたいと思います。
芝居をするのには、ずいぶん骨をおります。そして、それは面白いです。
 2015-11-28  10:55  by 階 
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劇場そのものを舞台として使用しますので、舞台美術さんの仕事は舞台と客席を創ることです。今回、こんな具合に創ってもらっています。
←これは、舞台と客席を上から見た図です。(この図の上半分が舞台、下半分の色のついた□が客席です。)劇場内に柱がたくさんあるため(能舞台みたい?!)、柱を避けて斜めに客席を配置しています。
どこに座るかによって、見える角度、見えるものがかなり変わります。
ぜひ、お早めに入場整理券付きの前売りチケットをご購入頂き、お好きな席を選んで観劇してください!
⇒前売りチケットのお申込みは11/30までです。お急ぎください。ちなみに、1幕舞台編の舞台は主に舞台の上。2幕目客席編の舞台は、舞台前面および、一列目の客席です。
客席から舞台を観るとこんな感じになります。

1幕目:舞台編

2幕目:客席編
 2015-12-02  18:56  by 階 
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今年は暖かい方だと聞いていましたが、やっぱり冬は寒いです。
12月2日は舞台編の稽古でした。
この日は太田さんはお休みだったので、久野さん、諸江さんと浅田の3人で諸江さんの「劇中劇」を中心に稽古を行いました。
久野さんからの「手品師みたいな感じにして欲しい」という要望を元に、諸江さんは劇中劇の台詞を言いながら缶の持ち方を工夫してみたり、ダンスのような振り付けをつけてみたりして、今までとも去年のものとも全く違ったやり方を考えていました。
諸江さんはダンスもしているためか、身体の動かし方や立ち振る舞いがとても綺麗で、諸江さんが動く度に「おお!」「かっこいい!」という私と久野さんの声が稽古場に響きます。(諸江さんは少し恥ずかしそうに笑っていました)
そうして初演の時とは全く違った動きや台詞の言い方を何度も試し、繰り返しているせいか、普段の稽古とはまた一味違う不思議な感覚になりました。
それを久野さんに伝えると「初演の稽古場はいつもこんな風だったんだよ」と言われました。
当たり前の話ですが、初演は役者さんと台本以外は何もないところから始まっています。
積み重ねと試行錯誤が繰り返されて、今のRecycle缶の階が出来ている。
Recycle缶の階から参加した私にとっては新鮮な稽古でも、久野さんや諸江さんたちはもう何度も積み重ねて通ってきた道だったのだな、と思うとなんだかすごいところまで来ている気がする、そんな稽古でした。
 2015-12-02  21:57  by 階 
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今日は、中村です。
12月になりましたね。師走といいますから、どうせ12月も、すぐ走り去って行ってしまうのでしょう。
さて、昨日は客席編の劇場稽古でした。
ところで、文章というものには、大抵の場合使われるフレーズ・メロディラインがあります。
例えば、
「今日は、絶対にお酒をのみません。」
という言葉があったとします。
これを、なにも考えず、ハキハキと言ってみてください。
結構な確率で、
今日は、絶対にお酒を、のみません。
、、。
というメロディラインになるのではないでしょうか?
私は癖で、このように、ある程度約束された保守的なメロディライン(節回し)で言葉を発する傾向が多いのです。
そして、この傾向は、あまりよろしく無いのです。
何故これが問題かというと、完全に自分の中で言葉をつくってて、さらには言葉を発語する最中でも自分の表現の中でしか広がりを持てないからです。
人間が人間と喋ってるとき、そんな事はまずあり得ません。常に進行形であり、相手の反応ありきで、どんどんやり取りは変わります。
そのため、メロディ、型にはまってしまったときは、何とかそこから抜け出さなくてはなりません。
昨日の稽古では、型にはまってしまったな、と思ったときの脱し方をいくつか考えました。
・言葉の音を敢えて変える
・いつもの動き、視線のやり場と変える
・何らかのアクションをする
・間をあけない
と、いうことを試してみました。
正直、全て私による私のための対策法です。
しかし、「いつも(の稽古)をなぞならない」ということは、「ナマモノである会話」を表現するのに、何処かで通ずるものがあるのではないでしょうか。
 2015-12-10  13:32  by 階 
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今日は。中村です。
ゼミ室から失礼します。卒論提出前のゼミ室というものは、阿鼻叫喚、まさに地獄絵図です。笑うものあれば、泣くものもあり、先生にたしなめられるものもあれば、先生に逆ギレするものもあり。
そんななかでもやはり珈琲は美味しいものです。
さて、先日は客席編の稽古でした。
七井さんがお休みでしたので、いつかの強化月間のように、森田さんに立っていただき、稽古をしていました。
相手の俳優が変われば自分も変わります。森田さんに変わることにより、相手の年が近くなるので、まずそこで変化が起きます。(因みに彼と私は同い年です)
また、その変化にプラスして
・「劇」というものは互いの目的を果たすためには必要な概念だけど、大切なのは「あの劇」であって、「劇」自体はどうでも良いのかもしれない
・私「椅子に座る女」は、どっかしらで演劇を知らないお客さんに寄り添えないか(芝居のアプローチではなく、役の存在として?)
という二点を考えながら稽古をしました。
結果、新たな「椅子に座る女」、下京さんが生まれました(何でしょう、この頭の悪い表現は)。それが採用されるされないはさておき、新しいものが生まれる傾向は、悪くないと思います。
ところで。
久野さんは稽古場では、取り敢えず俳優がたってみて、そこで起きたことに対して気になったことを確認したり、「それはキープで」や「さっきのは無しかな」と言ったアプローチをなさります。
が、今回の稽古では稽古でたつまえに一つ、リクエストをなさいました。比較的珍しいことであったので、新鮮な気持ちになりました。そしてそのリクエスト、私は面白いなと思ったのです。
劇を創る。この行為を、約5か月前から少しずつして継続してやっています。創り手も人間ですので、何かしらの変化は絶えず起こります。それが良い悪いでなく、事実として、人は変わります。
しかし、脚本は変わりません。
今、この距離について、少し考えています。
 2015-12-11  00:42  by 階 
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こんにちは、大谷です。
本日は七井さんがお休みのため、演出助手の森田さんが代わって中村さんと客席編の稽古でした。
今までもそうでしたが、最近は特に稽古に行くごとに役者さんの雰囲気は変わっていきます。今回の稽古に関しては役者さんが演じている役自体の性格が変わってしまったのかと思ったくらいです。
話によると役が本当に気にしていることに加え本当はどうでも良いと思っていることへも意識を向けているようで、その意識の変化が台本の言葉が違う意味を持って聞こえさせているみたいでした。
今日は衣装の打ち合わせもしていたのですが役者さんの変化に伴い、今まで考えていた衣装が合わなくなってきました。服がどれだけその人を表しているか、実際に目で見ることができた気がします。
そして今日は見学に来てくださった方に中村さんの相手役を演じていただきました。
これで私は七井さんと、森田さんと、見学者の方、三人の相手役の演技を見ました。同じ台本なのですが3つの違う物語のようです。
台本が変わらないのに、毎回新鮮な気分を味わえるのが不思議でなりません。
 2015-12-15  01:27  by 階 
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こんにちは、大谷です。
今日は舞台編の稽古でした。
今回の稽古で問題になったのは、”動き”でした。
劇場の空間を広く使うことは、観客の見ている世界の広さを表す大事な表現となります。しかし”動く理由”がなければ演技が不自然に見えてしまう、ということが起こるのです。
広がりを持った空間を見せたいというときに演技が不自然でないようにするにはどうすれば良いか?という話でした。
解決方法を探りながらの稽古と話し合いになりました。
もう一つ、”動き”で問題になったのは人が何かを思い出すきっかけについてでした。
一人の役があることをふと思い出し、急に行動するシーンがあるのですが、これも先ほど同様不自然さが出ないためには思い出すきっかけがなければ!という話でした。
目線を動かしてみたり試行錯誤していましたが、相手役の動きによって思い出すきっかけが作れたようでした。
普段の行動には大概”動く理由”があります。
でもその理由について普段考えることはありません。
旅先で普段の生活との違いを見つけた時、改めて自分の普段の生活について思い出したりします。
演技を日常の延長線のように扱うのは難しいことなのかもしれないなと私は思いました。
 2015-12-16  10:03  by 階 
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16日の稽古場には諸江くんがきていました。
客席編の稽古の前に、自主稽古をされていたようで、所謂「劇中劇」の箇所を稽古していました。
劇中劇 と言うのも不可解な概念でして、自分が演じている役が役を演じているのを演じる と、二重三重に演じると言う行為が
組み合わさっています。そのときに大切なのは、一気にそれらの重なりを飛び越えてやってしまうことなのかもしれない、と私自身も台詞をよませてもらって思いました。むちゃくちゃでもいいからとりあえずやってみる。
客席編の稽古では、私のほうに集中力が少し足りなかった感じがありました。仕事場から稽古場に入る時も、人それぞれ踏まなくてはならないルーティーンがあるようです。今日はそれを再確認できました。
また、冒頭から通しをしているときに、中村さん演じる椅子に座る女が私をマフラーで殴る と言う演技をしました。
7月から稽古をしていてこの作品上で一度も見たことが無い演技です。
演技の可能性、という言葉には、「演技すること」が背負っている(ある普遍的な)?人間性への信頼と言うか確信があると思っています。だから、可能性(演技の幅)は感じるけど軽々しくそれを広げたりなどできずに私たちは稽古で色々と試行錯誤しているのだと思います。この時の中村さんの一撃はそんな事を思い起こさせる一撃でした。
「あらゆる支配を免れし完全なる自由は、他の人々による節度を有せし支配に少なからず劣るなり。」
(プラトン 「法律」)
 2015-12-17  10:02  by 階 
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12月に入って風邪をひいてしまい、稽古をお休みさせてもらったりしているうちに、稽古場日記もご無沙汰しておりました。
14日は京都の下京青少年活動センターにて客席編の稽古でした。
客席編のここのところの課題は、演技の幅を広げること にあります。
(このブログでも何回も出てきているとは思いますが)毎回同じ台詞は話すのですが、その度ごとの微妙な差異を見逃さないで
演技に乗せる。その変化が、物語が変わってしまうくらいまで展開させてゆく、と言うようなことを俳優のレベルでは
毎回試行錯誤しながら行っています。
共演者の中村さんは、これまで中京さん・下京さん・焼酎の人・鈍器で買い物する人・アイドル等多数のキャラクターを
稽古毎に生み出してきました。
台詞の一言目の踏み出し方で、その後のキャラクターが変わってゆくような変化です。
その変化する状況をどのようにまとめてゆくのか(そもそもまとめないほうがいいのか?)、共演者である私は何が出来るのでしょうか??
稽古場には太田さんが来られていて稽古後に、相手役を引き立たせる演技の在り方 について話をしました。
今の自分の課題はその辺にあります。


 2015-12-19  00:14  by 階 
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こんにちは、大谷です。
本日は客席編の稽古でした。
私は久しぶりに七井さんと中村さん、お二人揃っての客席編をみたのですが前回の変化を踏まえてさらに前半と後半のメリハリが出ていたように思いました。
きっと、お二人のなかで2つの役がどういう風に向き合っているか、少しまとまってきたのだろうと思います。
それに伴って、演技が落ち着きすぎていることが問題になったりもしています。相手の反応を見ているというのは、相手を受け入れているのではなくて相手の反応へ反応を返すことだと久野さんは仰っていました。
自分の言いたいことがお互いにたくさんある役同士なので、相手のことを受け入れている暇はあまり無いねではないかと。
確かに、実生活でも自分のことしか考えていない時のほうが周りの環境に敏感になったりしますね…
また新しい変化が生まれそうな予感がします。
 2015-12-21  12:09  by 階 
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こんにちは、中村です。皆さま、いかがお過ごしでしょうか。
私は、先日、「グレゴリオ」と名づけられたハムスターを愛でていたところ、誤ってお湯に落とし、グレゴリオを茹で殺してしまう、という非常に恐ろしい夢を見ました。どうしようもない気持ちになりました。
さて、先日は客席編の稽古でした。
驚くべきことに、もう本番1か月きっているのですね。ご存じの通り、この公演の稽古は8月に開始されました。そこからさまざまなアプローチで、この台本を読んできました。「毎回毎回違うものを」という意識は、「違うものをしたい」からではなく、劇中の言葉を借りるなら「毎回、一から台本の世界を始めたい」という思いのもとで、ずっとありました。その積み上げは、ムラこそあれど、できたように思います。
で、最近は、ですね。少しづつ、今まで積んできたものを、足がかりに使っていくこともしております。
感覚的な話なのですが、今までの稽古でできたピースというか、材料?とでもいいますか、それを使っていくことをしています。それは多分「過去の演技をなぞる」とは異なっていて。稽古して生まれたもの(感情であったり、動きであったり)を、足がかりのひとつとして「再現する」のではなく、「活用する」といいますか。ああ。なんて感覚的な!!!
この現場を通して、改めて自分は周りの環境にすごく影響されやすい人間なんだな、と感じました。と同時に、何かこう、自分の中で立ち上がるものに対してもう少し寛容になることも求められているのかとも、思いました。
残りの稽古、何ができるのでしょう。
誰かの心の機微に触れられるお芝居にしたいです。
 2015-12-22  20:55  by 階 
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こんばんは、はじめましての濱田です
本日12月22日稽古場所は今回の公演をするパシフィックシアターでの稽古でした
どのようになっているのか稽古場に行くのが毎回楽しみです
実際に公演する場所での稽古というのは小屋入りする前にできることはすごく貴重で発見も多いです
稽古を見ていてこんなにすーと入ってくるのがなんとも心地いい感じでした
不思議な感覚だなーと思いなが見ていました
観客の感覚でもスタッフの感覚でもなく自然と目撃していた気がします
すーと始まりすーと終わる。
なので終わったあとぼーとしてしまいました
単調とか、早い遅いとかでもなくすーなのです
どう伝えたらこの感覚が伝わるかわからないですが実際に目撃してほしいなと思いました
稽古を踏まえ美術の改良点も話し合いより良い方向に進めたのではないかと思います
これからの全体の変化がより楽しみになる稽古でした!