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蛸の階WSオーディションレポート(森本聡生)


蛸の階、高知出演者のWSオーディションを行いました。
14名の方が参加し、今回は「海に送った灯」の台本を使ってワークショップも兼ねて、およそ3時間30分の創作の場となりました。参加者は演劇経験が豊富な方から初めて台本を読むという方まで様々でした。
ワークショップの始めに演出家より言葉の性質(言葉は音という事にフォーカス)ついての話し合いの場が持たれ、
参加者から様々な意見を貰いました。

まず「声の大きさ」「高さ」「速さ」が違うと伝わるニュアンスが変わるのはもちろん、「声の方向」が変わるとそれもまた意味が違ってくるという発見がありました。
また雰囲気やキャラクターが変われば言葉も変わるという意見が出て来ましたが、雰囲気とキャラクターが変わるのではなく、それは呼吸(ブレス)が変わるから雰囲気やキャラクターが変わって行くのではないか?(例えば子供と大人の呼吸は一緒?)他にも状況(シチュエーション)も呼吸に関連するのではないか?という事も話し合われました。

他にも興味深かったのが「内容によっては出せない音(言葉)」というのもあると言う発見がありました。
演出家が求めるのは「野鳥の心」
(鳥の声は言葉としては伝わらないけれども、とても沢山の情報が飛び交っている。例としてすずめの話をしていました。)

一通りの話し合いが終わったところで台本を使ってワークショップは進んで行きました。
その中で、大阪のWSでもやっていた自分のイメージ(自分の文化)を強要しないと言うことを軸として相手役と作っていく、それを14人で順番にやって行き、どうすれば良くなっていくかを参加者全員で考えていくという事をやって行きました。

その中で、台詞を話す言うのはどういうことなのか?ということになり、
「台詞をいうのは発言の余地を探す」という事ではないだろうか?という意見が出来てました。
そしてWS後半は、台本を使わずに一つの言葉だけで相手役と向き合うということをやりました。
(大阪では「パパイヤ」や「バッファロー」を使いました。)

ちなみに高知では「入道雲」という言葉でやりました。
初めは2人が入道雲を使ってやり取りが始まり、そこに1人参加し、また1人参加していくという流れで参加者全員が一緒になって入道雲だけを使ってやり取りをして行きました。
そこにギターやタンバリンという声とは違う音の要素を入れてどんどん進んで行きました。

大阪の時と違ったのは全員が一つの物語を追っていくというものでした。
大阪でやったときは大きなグループではなく小さなグループが沢山できるということがおきました。
そして全員でWSの感想を共有して、WSオーディションは終了しました。

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稽古日記:稽古開始!(久野那美)


脚本・演出担当の久野那美です。
7月から蛸の階の稽古が始まりました。

今回、高知と関西を拠点に活動している俳優とスタッフが完全に合同チームを作って
蛸の階して2か所で公演する、という企画です。
稽古も5か月間高知と関西を行き来しながら2か所でやっていきます。
ちょっとイレギュラーな形の滞在制作です。

7月7日に明石灯台で写真撮影と顔合わせをし、
そのあと大阪稽古→高知稽古→大阪稽古
と続いています。

はじめましての俳優さんと一緒に演劇するのは楽しいです。

出演者は、階公演フル参加の七井悠さん、Fの階に引き続き佐々木峻一さん、
高知でフリーで活動中の柴千優さん、荒木晶成さん、高知の劇団カラクリシアターで活動中の
中城賢太さん、Fの階で演出助手を務めていた劇団さあもんの森本聡生さん、
パーカッショニストとして関西と高知で活躍中の山村誠一さんの7名です。

年齢も経歴も様々な出演者と、行き止まりとにせものと音楽に纏わる物語を創ります。
今回も、稽古の様子を日記でご紹介していこうと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。

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7/15 蛸の階稽古日記(中城賢太)

7/15より蛸の階稽古初参加となります。
気持ちをこめて、よろしくお願いします。

初稽古で感じたこと。

 台本の読み合わせ、エチュード、何も考えていない状態で台詞を話す、これらのことを実行するなかで、洗浄を受けているイメージをもちました。つまり、今まで経験してきた舞台で無意識に得てきた癖を洗い出し、蛸の階の役者として初期化されている感覚です。
 反応を過去の成功例から引き出してくるのではなく、目の前の役者から得られる情報のみで反応する。少ない情報から反応するため、誤った捉え方をする可能性も高いし、情報を逃さないために集中し敏感でなければならない。
 ただ、失敗をたくさんしていこうという、演出の久野さんの言を受けているため、次回は自分がうまく反応出来るかはおいといて、自然に反応してみようと思う夜更けなのでした。

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蛸の階 稽古日記「はじまりました」 (佐々木峻一) 


今回は高知と関西を行き来して稽古を重ねていくのですが、その最初の高知滞在稽古に久野さんと7月12日〜15日の3日間行ってきました。朝バスに乗って昼ごろに瀬戸大橋を渡ったときは、ああこの公演に参加できてよかったなあと思ったものです。瀬戸内海の海と小さな島々の美しさ!これはこれから何度も高知と京都を往復するたびに感動するのでしょうか、それともだんだん嫌気が刺してくるのでしょうか?稽古でいっぱいいっぱいになってそれどころじゃなくなるのでしょうか?毎回の変化に敏感にいたいものです。

12日(金)15時ごろ高知駅に到着。暑い!南国感!この時点でリゾート気分になってしまいそうなところをいやいや稽古しにきたんだと自分をなんとか律して、大阪から乗ってきた久野さんと合流、迎えにきてくださった公演プロデューサーの吉田さんの車で、2年連続水質日本一という仁淀川を眺めながら、泊めさせていただく吉田さんのマンションに荷物を置いて一息つく。おうちが綺麗!オシャレ!ぼくは演劇をやっていてこのような綺麗な家でオシャレな生活をするということはすっかり諦めてしまっていたのですが、このようなクリーンな家に暮らす吉田さんが羨ましくなりました。

夕方から移動して、高知公演の会場の蛸蔵を見学させていただきました。自分たちが公演をする劇場に初めて行くというのは緊張します。何でなんだろう。場所から試されているような感じがする。そう思うと自分は公演会場に試されるばかりで、公演会場を試すようようなことはなかなかできないなあ。公演会場を試すような心意気で劇場下見をして、会場を緊張させたりするような大物になったらもっとおもしろそうだな。蛸蔵は、勝手に1人緊張してしまっている僕をも解きほぐしてくれるような、包容力のある優しい場所でした。

19時から、いよいよ高知の俳優さん・スタッフさんとの初めての稽古!挨拶をして、台本を最初から通して2回読み合わせ。初めてなので全員探り探りで読んでいたのですが、高知の俳優のみなさんの個性が感じられておもしろかったです。大阪での事前の稽古では僕や森本くんが代役で読んでいた役も荒木さんがやるとこんなにも可愛らしくなるのか!というのが衝撃的でした。あと、今回で俳優デビューというミュージシャンの山村さんもとても楽しそうに自由にセリフを喋っておられて、見ていて羨ましくなるくらいでした。家にあったという名前のわからない見たこともないエスニックな弦楽器の演奏も素敵でした。今回紅一点の女優さんである柴さんは最初緊張しておられたようでしたが、2回目の読みで動いてテンポアップして読んだときにはもう魅力が爆発しておられました。稽古後に吉田さんのおうちでみんなで食事会をして解散。

次の日15日(土)は、演出補佐の吉良さんと柴さんと久野さんと僕で舞台美術の委員長さんの車に乗せていただき、19時の稽古まで高知の観光に連れて行っていただきました。香美市立美術館での西原理恵子展もアンパンマンミュージアムも自分で自分に驚くほどはしゃぎまわってしまいました。30を過ぎてダダンダンに歓声を上げてしまうとは。念願だった上等なポン酢もお土産に買えてホクホクしながら夕方から集まって稽古。

山村さんの生演奏と俳優の演技がどうやったらいっしょに舞台に上げられるか、いろいろ試しました。写真は舞台を見ながら叩く山村さん。山村さんの前日のエスニックな弦楽器では雰囲気のようなものを限定しすぎてしまうのではないかという意見を受け、稽古場にあった箱馬のようなものを叩いて、それに合わせて前半のシーンをやってみました。その日初めて触れたであろう物体をすぐに自分の楽器にして演奏してしまわれる姿はほんとカッコ良かったです。俳優の演技に合わせて呼吸を読むようにぴったりの演奏をされて、繰り返すたびに毎回ちがって演奏もいろんな音が生まれていきました。この日の稽古で、楽器は前半はとくに単純な音の打楽器のほうが余計な色がつかなくていいということ、そして俳優の演技と演奏が一方的にではなく双方向に影響を与え合うにはどうしたらいいのかが課題として残りました。楽器自体のビジュアルの強さや出す音のおもしろさに、俳優は体と声だけで対等に共演するにはどうすればいいか。稽古終盤に山村さんも言っておられたように俳優はそうとう演技を鍛えないといけないなと思いました。

14日(日)の稽古でぼくは今回の滞在稽古は最後。前日前々日と大活躍だった山村さんはお休みで、ぼくと高知の出演者の荒木さんと柴さんと演出助手の吉良さんと久野さんで、前半の荒木さん・柴さんのシーンとぼく・柴さんのシーンを繰り返し稽古。繰り返すごとにどんどん柔軟になっていく柴さんが印象的でした。また、ぼくの役に必要な「大物感」はどうやったら出せるかみんなで考えました。個人的には土佐犬を引き連れているという案が気に入ったのですが危険すぎるということで却下になってしまいました。残念。心にイチローを持つというやり方を試したところちょっと大物間に近づくことができました。相手を試すような心持ちが大事だなと思いました。

濃い3日間を過ごすことができました。高知、また来ます!

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photo: beni taeko

蛸の階 高知にて(柴千優)

役者として参加します、柴です。

蛸の階は、高知で活動している演劇人と関西で活動している演劇人がタッグを組み、高知と神戸で公演をします。
本州と四国を行き来(主に関西組が高知滞在)しながらの作品づくりで、全体ではまだ3日間しか稽古していませんが、おもしろいほど濃く、次の稽古を待ち遠しく思うほどです。

7月7日に顔合わせ・写真撮影の後、関西組の稽古期間、12~15日まで高知稽古がありました。
「稽古場は実験の場でもある」という言葉が改めて身に染みました。試行錯誤を繰り返しでき、その度に身体の強張りが解されていくような稽古場でした。
最初のうちは緊張して恐々でしたが、エチュードをしたり、ハイテンポで読んだり、アフレコに合わせて動いたり、動きに合わせてアフレコしたり、役の設定を何パターンも変えてみたりと、試す度に新鮮さを感じ新しい発見にわくわくが止まりませんでした。
「色々試していこう!」と話す久野さんに対して、役者陣もこの稽古中にケミスト精神に磨きをかけていきたいと思います。

また今回の作品は、音楽家である山村さんの生演奏が入ります。稽古場にある箱馬を何年も愛用している打楽器のように使いこなしておりました。シブイ。
「音」にノる芝居、「音」を支配する芝居、「音」の主導権(先導者)は誰だろう。作品の世界、テーマ、登場人物の謎、音楽と台詞の関係、自由の越え方などたくさんの宿題を考えていきます。

この公演できっと何かが変わると予感しています。
それは他者との距離のとり方だったり、芝居との向き合い方だったり、消極的から積極的になったり、普段こんなに書くことはないので自分の文章力がアップしそうなそんな気もします。いいそわそわ感です。
これからどうぞよろしくお願いいたします。

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photo: beni taeko

蛸の階 大阪初稽古 (七井悠)

蛸の階に俳優として参加します、七井です。

今回の公演は高知と関西(京都、大阪)の俳優が一緒になって作品を作り、それを高知と神戸で上演するというものです。
そして今回は、ミュージシャンの山村誠一さんhttp://saezuri.net/ が参加されることで、作品の中に音楽(音)が入ってきます。
高知と神戸の「音」とは?
俳優である自分が、音とどう関わりを持つのか。身を委ねるのか、そこから身を引き剥がそうとするのか。
台詞で音に働きかけることはできるのか。
単に「台詞を喋る」ということに止まらない演技を模索する必要があるのではないかと今から思っています。

7月9日、10日と2日間連続で大阪での稽古がありました。関西組の佐々木くん、森本くん、七井と山村さん(9日のみ)での初稽古。
山村さんは楽器は持ってこられていなかったのですが、口笛や歌で色々な「音」を出されていました。
やはり、歌や音楽は強い。台詞(言葉)のように意味が先行しないので、聞いた瞬間に自分の中でイメージが喚起される。
それはおそらく観客も同じで、あっという間にその場が音楽に持って行かれてしまうだろう。
台詞を喋っている自分、音楽に影響を受けている自分を何回も往復しながら、演技(役)を組み立てて行かなければいけない、と感じました。

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photo: beni taeko

7/30 蛸の階稽古日記(中城賢太)

 本日は劇団33番地さんの稽古場所を借りて行われました。
 反応について興味深い話を聞いたので、自分解釈をメモとして。

 聞いたこと。
 台詞を言う相手の言い方によっては言えない台詞がある。→心理的に言えない時は相手の言い方を替えてもらっていた。→言いにくい状況はあったのに、台詞はスムーズに流れていた。→ワークショップの取り組みの一つに、初対面の人に「…あの…」というまでのやりとりをするものがあった。

 興味深いポイント
 例え:演劇は怖い人が怖さを強調するのではなく、それをうける人の反応が肝。その人を見た人の反応でその人の印象が大きく変わる。

 思ったこと
 つまり、見た目はおとなしそうな人でも、周りの恐れる反応から凄く怖い一面をもっている人だと思えるってこと?、怖そうな人でも、周りが楽しそうだったら、そこまで怖くないのかな~とか。台詞をいう人の存在×聞く人の反応=見た人の印象?役者によっては相手の熱を吸収する人、増幅する人がいる?自分は今、上記の式にいない?
相手が存在していようがなかろうが台詞を言っている?→それがロボット?→ロボットを抑えると自然な反応を抑えようとする自分と、別に相手の台詞の印象から物語を造り上げていく自分がいた。

解釈整理
 相手の台詞の雰囲気を受け取って、それを大きく表すのはよい。→演劇反応?
 雰囲気から物語を造り上げることや、雰囲気と無関係に台詞を話すことは目標から遠ざかる。
 自然な反応を抑えることは自分の中で一長一短ある癖の一つだと思う。少しずつ改良していきたい。

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(photo:beni taeko)
 

長台詞を言うということ(七井悠)

蛸の階、大阪でもちゃくちゃくと稽古進んでます。

大阪組では初参加の森本くんの特訓?稽古がメインで進んでいます。
今回森本くんには重要な長台詞を喋るシーンがあり、それをどうやって観客に聞こえるようにするのか、が今現在の稽古の
肝になっています。

人前で滔々と喋る、ということは日常的な行為ではあまり無いと思っています。会議や集会での;演説は、「それを聞く聴衆」が
前提としてあるので、話す側⇔聞く側 の関係が成り立つのではないかと。
では、舞台の上で1人で喋り続ける時は、どこに向かって語り掛けねばならないのでしょうか??
相手役、(稽古なので想像上の)観客、稽古場に実際に立ち会っている人、稽古場の空間、自分自身の身体... と台詞が
向かうベクトルは、様々にあるのではないかと思っています。
会議のように既に設定されている場所での語りではないので、自分自身でその所謂「設定」というものを作り上げて話さなくては
ならないので、その手段は無数にあるといっても過言ではないでしょう。
また、演技をしている瞬間毎にその「設定」を作ったり入れ替えたりをしないと、その演技は生きたものにならないとも思います。

文字にするとやや複雑で固いのですが、こういったことを体で瞬時に考えられるようになる為に稽古してます。

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photo:beni taeko

8/2 蛸の階稽古日記(中城賢太) 素の自分

 今日の稽古は役者はほぽフルメンバーで、山村さんの演奏も入って、充実した稽古になっていました。
 個人的な稽古実感です。

 自分の台詞から得る感情ではなく、相手の台詞の感情を受け取ることで自然な反応を掴めたと思ったら、2回目ではその反応がパターン化してぎこちない印象となり、反応することに集中すると、3回目では相手の動きと感情に自分を大部分合わせていた。
 そのため、(役の個性が失われた?)相手の状態を無視しているような印象となった。これを払拭するため話をしていたところ、稽古していたシーンで要求された動きが素の自分では、みっともないと内心思っているから、動きのよい相手に合わせてしまうのでは、という理解に至り、4回目に挑戦。
 相手の動きに対して、抗議を体で表したり割り込んだり、相手の動きを封じようとしたりしてみたが、総じてみっともなかったと思う。
 ただ、「不安そうに動くより、みっともなくても素の自分を隠さず、正直な思いをのせて動き回るほうが格好いい」との言葉に助けられてさらけ出せたこと自体はよかったと思う。

明日も稽古頑張るぞ!
熱中症には気をつけるぞ!
そして今はただ眠るのみ…

お休みなさい。

8/4→5 蛸の階稽古日記(中城賢太) 破れはじめた…。


8/4の稽古の会話で、

ずっと納得いかなかったことが、

!……ビッ……ビリビリッ…

破れはじめた。

明くる日の稽古で、自分が変わっていくのを感じる。いや、相手が変わっている。自分は変わっていない。自分はただ、聞いている。聞いて、ただ自分なりに返している。

自分が変わらなくなった。

開拓(柴千優)

コミュニケーションの出発点は、「はなす」ことではなく「きく」こと。

聴く、聞く、訊く

「きく」ことは会話において、進行を促して、そして促される分岐点にもなる。
「きき」方によっては選択される情報が変わってくるのかも。

稽古場ではコツコツと「きく」を馴染ませる作業をしています。

耳で、目で、心で、身体で、リズムで

外的要因によってどう刺激を受けるかそれによって何が発信されるのか。


9日よさこい前夜祭、花火の音が聴こえるなか
「台本上の台詞で漫才をする」稽古をしました。
結果、漫才?になっていたかどうかは置いときまして…相手が提示したものに対して、ツッコミとして台詞を入れる、あるいはボケる、引いてみる、咄嗟の判断で生まれる現象を体験しました。
どっちもハイテンションで話の緩急がなかったり、全員ボケで話の収拾がつかないカオスな状態にもなりました。自分は合いの手からのもう一歩。

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相手の波に乗っていく、相手の力を借りてもっと高い波に乗る、乗り心地がいいとアプローチの仕方もいろいろと楽しくなるよねという話もしました。
そうだよなあ、「ノリツッコミ」って「乗る」んだもんなあ。

手を変え品を変えあらゆる可能性を引っ張り出しています。


8/11 蛸の階稽古日記 中城賢太 関係性から生まれる

 もう昨日になってしまいましたが、稽古日記投稿です。稽古終わりから振り返ってみたいと思います。
 
 最後には同じ登場人物が3人になっていました。
理由としては、その方が楽しいから、ということだったと思います。楽しいというのは、見ていて舞台から目が離せなくなるという意味合いだと感じています。
 個人的に感じたことは、相手が2人や3人だと、対するこちらは一人なので、2、3人分の反応を引き出されるということです。強く言っている訳ではないのに、自然とはっきり伝えるように話している。
 課題に感じることもありました。自分も含めて同じ人物2人で話していると、自信のない部分はもう一人の出方を伺っていることです。これは自分が、どこの台詞において気持ちや反応を曖昧にして話しているか判断するのに役立つと思います。

 本当は舞台に一人しかいないのに、隠れる自分がいる。役の中での自分を話すことを遠慮する自分がいる。発見でした。
 
 その手前では、物語と人と人との関係性について意見が飛び交いました。僕は物語があって、その中で人と人との関係性があるという考えでいたのですが、人と人との多様な関係性、特に数行の文章では言い表せないような関係性の中で、物語は如何様にも発生する、という考えを聞くと、その意味の深さに沈黙してしまいました。
 その手前では、その多様な関係性を築くためのエチュードが行われました。全く住んでいる世界の違う存在が出会ったとき、どんな関係性が産み出されていくのか。どのような違いがあるのかは前もって決められていません。それは役者の動きの中で発見されていきました。新たなものが産み出されていく、今までになかったものが出現し続ける…。!の連続なのです。!を理解しようとするとまた、また新たな!が現れる。そしてその度に関係性は変化していく。

 ただ。何か見失ってはいけないようなものをその中で感じました。それまでの関係性を灰にしたり、0に戻したりしてしまった時、そうではない感覚を味わいました。
 ー関係性を育む思いを忘れてはいけないー。

しばらく稽古はお休みですが、自分としては、とても有意義な稽古となりました。次までには、この感覚を少しでも広げておこう…。
 

視たい、視たい、視たい(佐々木)

8月14日の蛸の階稽古はみんな高知帰りで、ぼくは2週間ぶり。
この2週間に高知で久野さん、七井さん、森本くんが経験して変わったこと、自分も変わったことを経て、また新しい気持ちで稽古することができました。
この新鮮さがやっぱり大事。セッションが楽しい。そんでぼくも早く高知に行きたい。
いろいろ思い出話も聞きながら稽古。高知の俳優さんたちの話を聞くたびに負けねえぞ!とメラメラするばかりです。

この日は久しぶりに会った森本くんがひじょうにメラメラとしていて、ぼくも嬉しくなって先輩ヅラしていろいろ話してしまいました。それを七井さんがいろいろ補足して説明してくださっていました。気をつけたいなと思いました。

このブログや関係者にしか共有されていませんがブログに書けないことまで書かれている演出助手さんのレポートにも何度か出てきている「聞く」「聴く」「訊く」という言葉。ぼくは「視る」のことを以前考えていました。演劇は「みる」ものであり「きく」もの。ぼくは何か演劇をみていて「おもしれー!」と感じているとき、自分の目の状態が「視る」モードになっている気がしています。「見る」より高い注意力でつぶさに視線をめぐらせて、「観る」のような何かを鑑賞するような幅におさまらないイメージ。客席でも舞台に立ってもぼくはそんな状態になって何かを「きき」たいし「み」たい。そんな体験はしたくてもそこまでいける機会はそうそうないのですが。そういう状態ってだいたいがいきなり予想できないときにくる。それにしても「視る」に対応するような「きく」の漢字表記ってないんかな。

8/20 蛸の階稽古日記 中城賢太 感情の無い台詞


今日はいつもとは逆に、自分の台詞を感情を乗せずに喋ってみる。すると、相手が話している時に、その感情が読み取りやすいことに気づく。自分の感情に気をとられていないからだろうか。さらに趣を変えて、絵の中の人物に向かって台詞を言ってみる。が、特に得られることはなかった。
以上。

稽古日記 荒木 俳優として

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荒木晶成です。稽古日誌初投稿となります。このページになにを綴るべきか悩みました。

高校の文化祭で演劇に出会い、
高知大学映画製作サークル21.で役者を始め、
シアターTACOGURAで1年『番町皿屋敷』『耳なし芳一』『ブレーメンの音楽隊』『須崎のまちの物語』『報われません、勝つまでは』に参加しました。
今年はフリー俳優として2年目を過ごしています。6/15.16 TRY-ANGLE『Hello goodbye 』を経て自分の可能性をもっと追求してみたいと考えました。

読み飛ばして頂いてかまいませんが……、

現在、舞台では10/4.5.6 ショープロジョクト『君ハ嗤ウ』@蛸蔵、
10/13 おさらい会『銀河鉄道の夜』@森林鉄道、10/19.20 蛸ラボ『ごみばこ』@蛸蔵、11/30.12/1.2/1.2 蛸の階『行き止まりの遁走曲』@蛸蔵.Kavc(神戸アートビレッジセンター)、映像では12/15公開予定『泣きたくなったら、ここにおいで。』@須崎市などが控えています。

「荒木晶成」として声をかけて頂けている今、俳優の仕事とはなにか?
ということを問い直したい。

ざっと考えてみたところ。

戯曲の言葉を伝える、台詞に書かれていない空白を埋める、相手役の反応を引き出す、身体表現で魅せる、感情を動かす、舞台上で役を生きる、作品の一部になる、共演者に刺激を与える、演出にインスピレーションを与える、稽古場の雰囲気を良くする、共感と意外性の提供など……。

どれが一番大事でしょうか?

どれもすべきことだと思います。
得意不得意はあれど、まんべんなく網羅することが求められるでしょう。

そして細分化すれば、もっと作業は多いですが、具体的にはおおよそ上記の通りです。

では次に、俳優とは「どんな価値を売る仕事なのか」といった問いが浮上します。

食品を考えればわかりやすいですが、
いまや無形のサービスを売る時代です。

俳優はどんな価値を創造して、
提供しているのか。

かなり長くなりましたので、
今回はここまで。

書ききれなかった分は個人ブログの方にも載せようと思っています。
ぜひ、チェックしてみて下さい。

ではまた。

周縁をグルグルすることについて(七井悠)

8月21日に大阪組(佐々木、森本、七井)の三人で稽古をしました。

久野さんの作品を読んでいて、言葉が「或る何か」の周辺をグルグル回ってやり取りがされている
という感覚を私は受けます。言葉にして言ってしまうと、そこから色々なものが抜け落ちしまうような
「何か」を、その周縁でグルグルしながら言おうとする言葉たち。

俳優として自分が喋る台詞(言葉)は、それくらいのあやふやさであり、やわらかさを持ったものだと
考えて稽古をしてみました。自分一人で意味を決めてしまって、台本の世界を自分で閉じてしまわないこと。

後、作品に登場してくる人物は皆「偶然」出会って、言葉を交わしているのだと気づきました。
自分の知っていることと、相手の知っていることは違うし、同じ単語を喋っていてもそこには
常にズレがあるのではないか?という感覚が、会話の中で重要なのかもしれない。

少しづつ役が動き始めて来ています。

8/22 蛸の階稽古日記 中城賢太 作り直し

今日は久しぶりに合同稽古。そこで思い出したこと。

自分に思いを伝える力がなければ、伝わらない。
今日は、それを示す相手の反応を受けとめられなくて、舞台の上に自分の世界を作り上げていたんだと思う。

全ては反応。もう一度、一つずつ。

8/24 蛸の階稽古日記 中城賢太 役作り1そして2

今日の稽古日記で得られたことは…


役作り、自分の今までのやり方とこれから

自分が 蛸の階 の役者になろうとしていること

 役作りについては、8/4→5の稽古で得られた、関連することを整理することから始めたい。
 その日の稽古。何もしないということが、何も判断しないという意味ではない、という言葉から、
 ・自然体、相手の反応を聞く姿勢で臨むこと。
 →相手とのやりとりの気持ちが掴める。
 別の言い方だと、
 ・自分の世界を作り上げていかない。
 →表現に集中し過ぎて相手の反応が掴めない。
 
事が整理できた。
 今日の稽古ではさらに踏み込んで、僕を含む役者にありがちなこと、具体的な役作りについて話が及んだ。
 役者が役作りのプロレスで、疑問に感じる時がある。自分が思う登場人物の性格と、稽古で指摘される事から類推される登場人物の性格に違いが生まれる時だ。そんな時はとても悩む。どちらかに統一しなければならないと考えてしまうからだ。だが、今日の稽古でそうではないことに気づかされた。
 自分の役作りを今ならこう例える。自分の台詞の中に共感できるものや、稽古で理解した自分の気持ちがある。それらを線で繋いで登場人物の性格としていた。そして、該当しないことには違和感を覚える。
 
 台詞と台詞の間には様々な気持ちの変化が含まれている。その中だけでも色んな気持ちがあり、更に共演者とのやりとり、稽古場の状況、本番までの進み具合での無限の変化が考えられる。だからこそ日々の稽古で気持ちや動きを常に発見していく姿勢が必要。性格というのは本番で始めて決まる。そしてこんな性格だと一概には言えない。

明日も稽古は続く…。

8/26 蛸の階(中城賢太) 反応の図式化に挑戦

 今日の稽古日記は捉え方を精査する必要があるため、後日記載する。よって、主題の通り、稽古で感じる会話での反応を備忘録として簡単に図式化してみることにした(もちろん未完成)。


自己の反応=直前の相手の反応×自分が保有する情報+周りの環境の変化

 直前の相手の反応が捉えられない場合は、直前の自己の反応を代替する場合があるが、これは自分と話しているようなもので、会話にはならない。相手の反応を読み取る力が問われる。

 自分が保有する情報が少ない場合、伝える気持ちが乏しくなる。反応する根拠がないからである。
 そのような状態で台詞を喋ると、誰かに言わされているような空虚なものとなる。もしくは、まるでその台詞が要因もなく発生したかのような、不自然な状態になる。まず台詞を読み込み、論理的な成り立ちを知ることだと教えられた。

 周りの環境の変化に鈍であると、共演者や舞台と調和せず、一人浮いているような印象となる。台詞を頭に叩き込む、稽古を重ねることで一つでも緊張する要素をなくす。舞台であることと、舞台上はどのような場所であるのか(砂浜、ビル内、公園等)は分けて考えなければならない(出来ていないが出来るよう頑張る😤)。

今日はここまでにしておこう(御意見や訂正等コメントお待ちしています)。

8/26 蛸の階稽古日記 中城賢太 自分を複数の視点でみる

8/26の稽古で得られたことは…

複数の視点でみえてきた、自分の姿と目標


正直、かなり辛い稽古でした😰。みえてきたのは、自然に注目してしまうような会話をしている自分ではなく、一人で盛り上がっている自分😂。
けれども、自分が何を目指しているのかがはっきりしました。徐々に本番が近づいてくる。着実に進むぞ✊。

※写真タイトル
 役者が苦しむ様を嬉々として撮る吉田氏。
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稽古日記 荒木 細い糸

稽古日記 荒木 一本の細い糸のようなもの

シーンが繋がっていない、
役の気持ちが続いていないと感じたことはありませんか?

ある共演者から「一本の細い糸のようなもの」でしょうかという言葉を聞きました。

そこで僕が思ったのは、糸は一本伸びているもの。糸はシーンの始まりから終わりまで、常に存在している。であれば、その糸が伸びている最初の一点があるはず。そう考え、シーン開始時の灯台守の気持ちを想像して、ある心境を想像して持って演じました。

しかし、いまいちしっくりこない。

どのように演じるか変えてみよう。

笑顔で明るい雰囲気にしましょう。

そうすると、悲しみがより感じられるようになったという。

井上ひさしさんのいう、笑いと悲しみの関係にも似ているかもしれない。

思いと反対の言い方をすると、
より思いが強く感じられる。

悲しみの感情が伝わった。
灯台守の心境の変化が明確になった。

このシーンを観れるようになったともいわれた。

観客がなにか起こっている所を目撃する。
このシーン上で灯台守の心が動いたことが観ている人に伝わる。

話についていけるようになった。

「糸はある瞬間に生まれる」
そう口にした人がいました。

それは、ある瞬間から物語が動き出すイメージ。なにか出来事が起こったと認識できる時のことかもしれません。

糸=感情?
糸の波打ち=心の動き?

なにも起きない舞台を観るのはしんどい。
聴き手にかなりのエネルギーを強いる。

これからなにが起きるんだろう?
と気になってしまう。
つい、見ていたくなる。

そんな空間を舞台上につくるには、
この「一本の細い糸のようなもの」が手がかりとなるのかもしれません。

とはいえ、まだこの感覚が自覚できていないので、まだまだこれからです。

稽古日記 荒木 9/1稽古場での気づき


流れを阻害するもの
自分の間(ま)で台詞を言っているから、流れが切れる。糸が生まれない。進行している流れの中で一人停滞している存在がある。するとその停止の度に物語も止まる。止まることによって、思考が舞台から現実に戻る。
役としてではなく、荒木晶成として舞台に立っている瞬間が幾度となく見られる。実際、台詞を言う前、つまり相手から台詞が投げかけられた時、困った顔になるという視覚的な癖があるとわかりました。

殻を被っている。なにかを守っている。
そう見えるらしいということが発覚しました。それは自分をさらけ出すことへの恥ずかしさなのか、いやそういう恥じらいは感じていませんでした。ただ、これはしてはいけないのかもしれないという意識があったように思います。無意識に一瞬、複数の選択肢が浮かんで一番無難なものを選んでいる感覚です。その時に感じたものを素直に出すことはなにも恥ずかしいことではありません。もっと適当にやってもいいんじょないかな、という指摘は決しておろそかにするという意味ではなく、やってみたことが良かったのかは、やってからしかわからないからまずはやる。そこに壁を作る必要はないということだと受け取りました。これまではなにかを守っていた。それを少しだけ解放できたようです。


意味と音は通じてる
台詞をどう言うかではなく、なんで言うのかということについて考える必要がある。
どういう心境になるから、その言葉が口からでるのか。なにを相手に伝えたくて発するのか。それは実際に表出した音に反映される。
もし、台詞の意味を持たせられていなかったら、それはただ読んだだけの文章。会話、コミュニーケーション、芝居にはならない。ただ台詞を言っている感があるとはこういうことではないでしょうか。

できた、できないの感覚
その一回では、できた。
でも、その次にはできなかった。
そんな感覚の繰り返しが起こる。
できるできないの背景にはその時に触れている全ての状態や要因に基づいていると思ます。できることの精度を上げるには、その背景について分析し、できる限り準備をすることにかかっているのか。

長い手足、身長をもっと活かして
大きく動きがあると、その視覚的な印象はより強まるのだろうか。そして小さな動きと大きな動きは、異なるイメージを伝えるのだろうか。
長い手足を持った人間が素早く動くと可笑しい。『時計仕掛けのオレンジ』に出演した小栗旬さんについての紹介文にこれと似たようなことが述べられていました。
私が舞台で突拍子もない挙動を取ったら、それが記憶に残って面白かったという感想もいくつかありました。
なぜ良いのか。なぜ面白いのか。
それは今後も探っていかなくてはなりませんが、「細長いものが大きく早く動くと可笑しい」ということは共通して言えるのかもしれません。

話し合う場の雰囲気も大切
より議論が盛り上がるためには、どのような問いかけをしたら良いのか、どのよつな態度で発言をすれば良いのか。私が演じた様子を周りに尋ねた時に、空気が重くなるのを感じました。きっと、質問に対する回答がしにくい状態をつくってしまっているのだなと察しました。話合いの雰囲気づくりに関して、私にできることはあるのか考える必要がありそうです。

経験・知識が皆豊富、聞けることはたくさんあります。悶々と一人で考えることはせず、分からなければ聞く、どう感じたか伝えてみる。やりとりの積み重ねによって、自分の感覚として、これかというものが見つかるのだと思います。その状態になって初めて、自分の言葉で説明する段階に入れるのではないでしょうか。もしそうであるなら、とにかく、いろんな人にたくさん意見を聞いてみることが、早く経験・知識を積み重ねるための術ではないかと感じました。正解がわからないことに対して、見解が異なることはもちろんありますが、同じことを別の角度から説明していたり、おおよそは似ているが部分的に異なる場合もあります。全てが一致するというこのとはまずないと思います。その時に、落とし所として、自分の考えの位置を明確でなくてもぼんやり捉えることができるかどうか、それが重要だと思います。

相手役から
スペース、受け皿?が広がったと感じた。
これまでは、自分の狭い周辺に意識があるように見えたが、その意識が少し広がり、相手を見るのに使っているように感じたということです。変化前は相手を無視している訳ではないが、それに近い状態だっという。内へ、自分に意識がいく癖がついているのは確からしいため、そこをもっともっと広げていきたいです。どのようにすれば広げられるのか。

いままでには感じなかった温度を感じた。
これまでは、どんなアプローチをしても、なにをしても、動じない断固として動かない印象があったそう。それが少しだけ受けたものに対して動くようになったらしいです。温度というと私は少し捉えづらい部分があるのですが、この漠然としたものを、ほかの言葉で説明できないか考えます。

「一本の細い糸のようなもの」糸というのは、自分の一人で考えた流れを守ることだと考えていたのではないか?そうではなく相手役とのやりとりの中に見出し、探ってお互いにつなぐもの。糸が見えたときの芝居では、生まれたての子羊のように見えた人もいたようです。新鮮な身体をつくれていた?その場での反応を取ることができた?
なんか繋がっていた。


数日の稽古の中にも、
たくさんの気づきとそれに伴う小さな変化が徐々にみられるのではないかと感じました。

9/1 蛸の階稽古日記(中城賢太) 試行錯誤と日常会話の意義


9/1の稽古で得られたこととは…

土台となる台詞の間の確認と、試行錯誤。

日常会話の反応をイメージ化できた?

 稽古終盤で作・演出の久野さんと柴さんと3人で台詞の確認をする。台詞の意味を考えて喋っていたつもりだったが、説明を聞いた後では台詞の繋がりや背景が整理されて、少し肩が軽くなった。今まで随筆や小説を色々読んできたけれど、変に深読みして難しく考えていた部分もあり、逆に登場人物の人間関係で重要なところを読み飛ばしていた部分もあるなと、気づかされた時間でもありました。
 そして、得られた台詞の繋がりや背景を大事にしつつ、主要なシーンを稽古。台詞が浮わつく、自分の感情に盛り上がっている、語尾や聴くときの癖等、修正する部分は多い。舞台上での動きは試行錯誤の連続で、出来不出来が分かりずらいがそれでも、試して身に付けていかなくては。

 日常会話での反応はイメージ化出来るような気がして、どうしようか考えていたが、僕の絵心はスマホの絵文字程度。言葉で書いてみる。

解釈中…

 日常会話では、言葉と気持ちの割合が4:6のような気がする。つまり、言葉の意味より、気持ちの意味が強く伝わる。?…日常会話は人生の中で使いならされている言葉が多い。だから、言葉の意味だけでは判別しにくい。そこで気持ちの在り方が言葉の意味に強く影響を及ぼす(挨拶はその典型だと思う)。
 そんな日常会話は、ちょうど相手に向かって気持ちのシャワーを浴びせているようにイメージできる。言葉は相手が理解する手掛かりで、言葉を発する理由、その主体ではないと思う。だから、言葉の意味以上の情報が伝わってくる。不明瞭ではあるが。そんなやりとりが続くことで、相手や自分の状態を共有していると考えられた。仕事の前の世間話や、道端での会話等。



稽古後の花火。この夏初めての花火。
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稽古外日記 荒木 9/3の気づき

全体像もわからないのに、未知なのに、全ての無意識に自覚的になることはできるのか?

先人の気づきを得るための、知識を取り入れるしかない。トレーニングによって、発見することをただ漠然と繰り返すしかないのか。

そして見つかられる可能性は低いが、まだ、誰も気づいてないことがあるかもしれない。

映像は稽古ができない。だから、事前になにをしてくる必要があるのか。
それを舞台の稽古場までに準備してくると、更に稽古の質・密度が高まるのではないでしょうか?調べてみる必要がありそうです。

なぜ基礎練の指導を任されて教えた時に、メンバーの1人だけが不満そうな顔をしていたのか?自分の既知の内容だったから?根拠がないように感じたから?早口でせいで喋ったのが幼稚に見えて説得力を欠いたのか?人にものを伝える時にはどのように伝えたら良いのか。上記は、自分の感覚を言葉にして伝える際にも注意できることだと思います。

稽古日記 荒木 9/6の気づき

綱を引っ張り合ってみる
台詞に力が入るようになった
引っ張られたニュアンスを言葉のアプローチに対して感じれたら良い。

稽古方を持ち寄ることもできる。なにか新しいことをして、新しい感覚に気づけるのならそれは良い試みです。とりあえず、なにかできるアプローチ、方法はないのか調べて稽古場に提案してみることが大切。

目が潰れる。目が曇っている。
普段の方が目がキラキラしている。
なにが原因か?心理的な違いがあるのか。

明るくやってみることで、現実に戻る時の瞬間が映える。なにかかかえているから、気になってみる。腹の内を簡単に出している人を見たいとは思わない。
なにか本音を話す、現実に戻るきっかけがあるはず。
表情は変わっていない。
感情の起伏は出だした。
表情の大きさはもう一押し。
ジェスチャーしようとしているのはわかった。手話みたい。手話は表情ありき。
テーマパークのキャストみたいにしてみようとしてやったやつはやり過ぎではなかった。

……、そうなったらいいなぁと、、
この「……」にはなにか意味があるはず。

事実を語っていることと、自分の信じている伝説を語る時には気持ちの変化があるはず

「」がついている台詞はキーワードであり、なにか意味があるはず

台詞を覚えているからといって、台本を見返さないのは危険。隠れたり、見過ごしたりしている脚本解釈のヒントがあるかもしれない。
再度、文字としての台本を見返してみようと思う。

文単位で伏文だったりを理解できてるけど、物語の流れとしてもっと違う表現ができるかもしれない。
もっと構造として広く捉えて考えてみてもいいかも。

野心が感じられない。実験していない。3回やったら3回とも一緒に感じる。変えているのかも知れないが、それは観ている側には伝わっていない。もっとわかりやすく、オープンにしよう。

緊張する?しないのはなぜ?あまり良くないねぇ。稽古場では新しいことをするから、それがウケるか心配で不安を覚える。本番では決まったことをするから、安心するのでは?
それは新鮮な気持ちで本番をできていないということで、良くない。
遊ぶ楽しみを知らない。それは余裕があるなしには関わらない。

9/6 蛸の階稽古日記(中城賢太) 与えられた役に好意をもつと

9/7の稽古で得られたこととは…

与えられた役を好きになると、盲目になってしまう。

 以前稽古の休憩中、恋人にしたいならどんな人がいい?って話になりました。その時は稽古には関係ない話かなと思っていたのですが、9/7の稽古で、僕は自分の役に恋をしているのではないか…と…。

 いえ、違うんです。付き合いたいとか、そういうんじゃなくて。役の人物に好感を持っているということなんです。


タイトル 伝えようともがく男
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 稽古を重ねると、段々、役の人物のさまざまな一面がわかるようになって、興味が深まるというか、それはいいことだと思うのですが、

 役の人物の好きな面ばかりみるようになったり、強調するようになっている。

 この状態に自分が染まっていることに気づいたんです。

 次の稽古では気を付けていきたい。役の表情を消してはいけないと思いました。

9/8 蛸の階稽古日記(中城賢太) 台本読み込みスキル必須

9/8の稽古で得られたこととは…

 台本を読み込む力は必ず要る。

 稽古場近くの自販機トーストうんまい!


今日の稽古メニューは、

 漫才形式で立ち稽古(マイクあり)
 
 台詞の前に話すきっかけとなる気持ちや言葉を
 つぶやく
 
 台詞の意味を一つ一つ確認していく

でした。

 そこで教わりながら見えてきたのは、

・一人で読んだだけでは理解できていない台本読み込みレベル

・理解できていない部分を感情やオリジナルストーリーで結論づける癖

・台詞の度に変化している立ち位置(登場人物の話の理解度、気持ち、聞く側、聞かれる側、話のズレを戻す、ずらす、その場の力関係等)

・役者の役割と演出の役割について…

盛りだくさんでした。

話代わって、今日の稽古場近くにはゲームセンターがあって、その側にある自動販売機コーナーにはトースト自販機があります。

タイトル トースト自販機
 
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ホイルで覆われたトースト
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チーズとハム、二種類あるのですが、そのチーズがうまい!チーズの旨味にホンノリあったかトーストサンドか合間って、これで230円は安い!

稽古疲れも癒される夜食となりました。

タイトル トーストチーズサンド
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9/10稽古日記 音と対峙して台詞を言う事 (七井)

記事のタイトルに「対峙して」と書きましたが、もっと適切な言葉がありそうな気がしています。
向き合って?操られて?関わって?絡まって?
現在の自分の状態は、対峙して のようなので、これからまた変化してゆくのだろうと思います。

音、とは稽古場で山村さんが楽器(と口笛)で出している音です。
いわゆるBGM(バックグラウンドミュージック)としての音ではなく、役者が発する台詞と同じ(階層にある?)ものとしての音、を役者の演技に集中しながら山村さんは出しています。

今日の稽古でその音に反応しながら行ったところ、自分が喋る長台詞が大分柔らかくなっていた、と演出の久野さんに指摘されました。そしてそれは自分にとっての良い変化なのでは?、と考えています。
どうしても台詞の意味を拾って追ってしまい、そこから自分なりの役の像を作り上げてしまう。その事に気づきました。

ではこれを、音がない状態(山村さんがいない状態)の稽古でどうやって再現するのか?
音がないのに演技している時の感覚を再現しようとしてもまず上手くいかないでしょうから、
相手役の台詞や仕草、表情の中にその変化の引っかかりを作っていかねばならない、が今の所の指針です。

まあ、稽古前に考えてきたことは大概稽古場では上手くいかず、思わぬところから道が開けるものなんですが。

9/10 蛸の階(中城賢太) 台本×ドラム=稽古場?


 蛸の階での稽古場の様子を台本とドラムを掛け合わせて説明してみた。

 (分かりづらい表現、お許しください)

 例えば、役者が台本を読み込む行為を、好きなCDからドラムの音を拾って演奏に持ち込もうという行為と重ねてみる。

 台詞はCDから聞こえるドラムの音であるとする。挑戦者はその音から、CD内のドラマーがどのようにドラムを叩いているかを考える。このドラムを叩く動きをサブテキスト(台本にかかれていない情報、間)とする。

 台詞    =CDからのドラムの音
 サブテキスト=CD内でドラマーが叩く動き 

 挑戦者はドラマーが叩く動きを知ることができない。これでは動きを見直すことは至難の業である。そこで演出家が登場する。
 演出家はドラマーの演奏を観ている者であるとする。演奏を観ている者は挑戦者がドラムを叩く動きがドラマーと違うことや、うまくできていないことが分かる。
 作・演出家となれば、ドラマー本人に近い。挑戦者の動きがどのように違うか、どんな動きが適切かも分かる。

  演出家=ドラマーの演奏を観ている者
作・演出家=ほぼドラマー本人

 挑戦者は、まずドラマーが叩く動きを体現することを目指す。そして願わくば、ドラマー本人を超える動きを実現してもらいたい。
 
 答えが与えられないため、挑戦者はドラマーが叩く動きを体現すること自体難しいと感じる。しかし、答えを知らないことが、ドラマー本人を超える動きが生まれる要素となる。

(ここに共演者の要素を加えると、ドラマーだけではなく、バンド全体の動きに発展する。)

以上。

9/12稽古場日誌(佐々木)

仕事終わりで、一旦帰宅して、家賃を振り込み、稽古場に直行、電車の中で「あかん疲れてる」と感じ、以前七井さんに教えてもらった呼吸に集中することでコンディションを整える術を電車内で実行、車窓に映る自分を眺めながら1人スーハースーハー深呼吸。稽古場に到着してさあやるぞとアップを始めようとしたけど一度寝転がってから立ち上がるのが億劫で億劫でこれはまずいぞ今日の稽古、ぜんぜん思うように体が動かんどうしようかというあいだに稽古は始まるものです。この日がまさに。しかし動いてみると意外と楽しい。というか、以前の稽古開始に向けてばっちりコンディションを整えてきた日と比べても調子がいい。

ということで、調子のいいとき・悪いときというのは自分に何が起きているのかというのを考えてみるいい機会だったのでした。まずは、調子が悪い、思うように動けない疲れたしんどい、というコンディションを受け入れるところから始めることができたのはよかったなと思いました。ぼくだけかもしれませんが、今の感覚に抗わず、「できない」という認識から出発することで、余計なものを加えずに目の前にある材料だけでどれだけ美味しい料理が作れるか、という挑戦をすることができる、その制約が逆に表現の可能性を広げる。Never Young Beachの安部勇磨さんがツイートしておられたように、「難しいは楽しい。うまくいかないも楽しい」「結局うまくいかないときがなんだかんだで1番楽しいのかもしれない」名言!でも気を抜くとうまくいかない不安やしんどさに耐えられなくなって、すぐ上手いことやってしまいそうになる、それはぜんぜん上手いことなんかなくて、料理を始める前のいろんな下拵えをすっとばしてすぐ料理しちゃう感じになる。ぼくのサボり癖がエグいだけかもしれませんが。逆に「今日調子いいぞ〜」と思えているときはあとは稽古の時間を通して堕落していく一方で、だから「できない、しんどい、不安」と思えているときのほうが安心していられる。そもそもの「舞台に立つ」ということの異常さを感じられているかどうか。そのためには状況を見る冷静さが必要で。

稽古っておもしろいなと思いました。

9/14稽古場日誌(佐々木)

来年2月神戸公演で使わせていただく神戸アートビレッジセンターで朝から稽古、お昼からはワークショップ、というひねもす蛸の階でした。

稽古とワークショップ会場はKAVCの会議室をお借りして、本番で使うのはギャラリーとロビーのスペースなので、あらためて本番をイメージして眺めてみる。ロビーの吹き抜け感がいい感じに劇設定の野外の開放感につながったら気持ちいいだろうなと思いました。今回は高知会場の蛸蔵とKAVCのギャラリーで空間がまったく違うので、同じ劇だけど舞台もまったく形になると思われます。

稽古はあいかわらず七井さんと森本くんとぼくのシーンを繰り返し。とにかく森本くんがいっぱいしゃべって2人が聞き、ぼくがいっぱいしゃべって2人が聞く、というシーン。繰り返しやっていることで決まってきたことが多くあるのですが、この日もそれが裏目に出る形に。決まってきたことで安心して立てるようになるのですが、それよりも何も決まっていなくて必死に立ってたときのほうがおもしろい。稽古を重ねていくことでサボり方を覚えてしまうというのは恐ろしい。自戒。

ではなぜこんなに稽古すんねん。やればいいという話でもないにしても、やはり稽古量でしかたどり着けない地点というものがあるからでしょうか。こういう掘っても掘っても何も出てこないようなしんどい時間を過ごしてしか掘り当てられないお宝を探して、今日も稽古場に向かっております。

稽古日記 荒木 9/8の気づき

大人しい、しっぽり、良い人

公園でスタッフとして働いたいるなら優しさ・思いやりはある人?
全てにちゃんと受け答えしてくれる
自分からスラスラ
まるで灯台守から声をかけたみたい

テンポが一定、間が足りない、悩んだりという間は感じられない
間が「無」に見える
間の中になにがある?
漠然と問いかけを理解するための間
思いを巡らせる思考の間
相手のセリフの間でもどう返そうかどう伝えようかという間があるはず

間がキレイ、整理されている
間はもっと不自然なもの


全部が本当の言葉に聞こえる

行くことができません〜は変わり得るのか
いつも切り替わってるのはなぜ?
台本に改行があるから?

伝説の話題に切り替わると気持ちの変化もある?
伝説の語りをキャストのマニュアルとして用意してみる?

良い人をにじませるには
実は良い人なんじゃない?くらいに
相反する感情をミックスする
複数の感情の割合の変化
内面の揺れ動き

台詞の前に心の声を入れてみる
台詞が出る前の内面を明らかにするため
話し始め、語頭に「ごめんなさい」がつくほど低姿勢な印象
なにか負い目を感じている
にせものの灯台守でごめんなさい?
かなり卑屈な灯台守であることが発覚した
いつになったら僕は本物になれるのか、僕は今にせものなんだ…

改善するべき
卑屈をやめる、謝らない方法は?
テーマパークのキャストは的確だった
明るく嫌な人やって?
笑顔でキャストとして帰らせるようにはできない?
嫌な感じを出さずににじみ出させて
一貫して帰らせようとしているのか?

自分が当たり前だと思っていることを当たり前のように言えていない
会話のすれ違いがこのシーンの面白さ

助けたいとは思わない
けなげに働いていないと
無理して頑張っている様子
ドヨーンとしている人を助けたいとは思わない

最後のシーン
にせもの→ニセモノになっている…
固定された概念になった?
なにか意味がある?

稽古日記 荒木 9/16の気づき

公園スタッフとしての明るさ+もう帰ってほしいと匂わす→明るくはなかったけど、ごめんなさいな感じはなくなった

悲しさ←ー→明るさ
中間を探っているはずが、悲しいアピールをしている人に見えたそう
ほら、悲しいでしょ?同情するでしょ?みたいに

それは拒絶したくなる。
話を聞きたい。助けたいとは思わない。
他人事で、そうですか頑張って下さいで終わる

振り切ってやってみて初めて中間の塩梅を探ることができるのでは?
明るい芝居の感覚をどのくらい引き出すか調節できるようになる?

やはり、眉が八の字になる癖がある
そうならないように暗い顔、困り顔にならないように気をつけて

その顔になったら稽古を止めるから。

あるエピソード
初対面で道案内してくれた人
もう会うことはないからとりとめのない話をして、辛くて散歩していたと聞く
別れ際の最後に、身内に不幸があったことをさらっと暴露された
その時の感覚と似ているのかも?

見知らぬ人だからこそ、さらっと言えてしまう
会社で働いていても、暗くならないのがマナーだから明るく振る舞うでしょう

表情、顔から暗くならないように心掛けることで、それが灯台守として明るく振舞おうという態度が見てとれた
決して明るい人ではないが、見ていたくなった。気になった。拒絶したくなる印象がなくなった。

共感できた。あぁ、そういう時あるなぁと…
感情変化のきっかけがつかめず、悲しさを出せなかった感覚だったが、にじみ出ていたそう。
意識すると駄目になるかもしれない

灯台守 にせもののであることが当たり前
赤靴 本物の港だと思っている

だいぶ明るくなった。だからこそ、すれ違いが起こって解消する構造になっていない違和感が出てきた
灯台守 大丈夫?死にそう…
→ どこか物憂げ

もっと赤靴を翻弄できたら良い…
え!?という反応を引き出すには?

当たり前をちゃんと真っすぐ渡すこと

9/22 蛸の階(中城賢太) 登場人物と交差する瞬間


 舞台を経験するときに、役者の醍醐味だなと僕が思っていることがあります。
 
 役として与えられた登場人物、彼らの一時の人生を共有できるということ。
 
 稽古で感じる不安や孤独。それはある意味、登場人物が感じている気持ちなんだと思います。その境遇に役者は飛び込む。大変な作業ですが、馴染んでくると、登場人物に自分の人生経験を+することができるようになります。すると、登場人物は不思議な存在感を放つようになる、気がします。
 あなたは一人ではない。登場人物にとって、そんな存在になれる瞬間が、今僕が役者をする喜びの一つです。

9/23 蛸の階稽古日記(中城賢太) 台詞を歌う理由


9/23の稽古で得られたことは…

 台詞を歌ってしまうのは、サブテキストが自分の中ではっきりしていないのに台詞を言っちゃうと自分が言っていることと相手の反応との整合性が取れなくなって、その違和感のつじつまを合わせるために無意識に行ってしまいさらに自然に喋っている気分になってしまうちょっと自分だけで気づくのはやっかいな状態…ような気がする。

 長め。まとめても長くなりました。
  (2倍速でお読みください)
 

 稽古の中で何度もサブテキストを確認する機会があったので、台詞を歌ってしまう理由についても分析が進みました。

 対策について意見が交わされ、自分の台詞を録音して聞いてみて、言っていることが解るか確認する、台詞を他の人に聞いてもらう、サブテキストを一つ一つ理解していく等意見が出ました。

 また、演じる役の気持ちを感じるのが辛くなると、歌ってしまう可能性があります。
 
 台詞を歌ってしまうと、何が言いたいのかがあやふやになっているようです。それは、台詞が長くなれば分かりやすくなります。台詞を音として捉えているため、台詞の始まりと終わりは小さく、真ん中あたりは大きくなっています。聞こえはいいようになっているので、相手の反応をよく視ていないと違和感に気づけないようです。

9/26,28 蛸の階稽古日記 中城賢太 ここが入り口

9/26,9/28の稽古で得られたこととは…

 
 0から始まり、反応の流れに乗る

 
 今まで稽古の中で何度も言われてきた、
全ては反応から始まるという言葉。稽古を積み重ねる中で、その言葉を自分なりに
捉えるため何度も失敗を重ね、その度に
見直しが行われました。上記の言葉は、
それを一つにまとめたものです。
 
 9/26の稽古では、反応するための情報を自分の台詞で吹き飛ばしていたことに
気づき、そこから相手とやりとりができる
ようになりました。自分の動きに
バリエーションが増え、相手の動きや
表情も様々に印象に残るように
なりました。
 
 9/28の稽古では、拡大された反応の
渦の中で、自分から反応を表現しようと
しなくても、相手の反応をしっかり
受け取れば、自然な反応は表れている
ということが分かりました。そして、
自分の反応がやりとりに影響を与えている
様子も、より感じることができました。
 
やっと入り口に立てた気がします。

タイトル 行き止まりの町からの使者
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9月28日・29日稽古場日誌(佐々木)

9月28日・29日とKAVCの会議室をお借りして稽古。

28日は、高知から中城くんが来てくれていっしょに。ぼくは中城くんとは7月のチラシ撮影以来の再会でいっしょに稽古するのは初めて。高知で稽古していたみなさんからの土産話やこの稽古場日誌からも想像つくのですが、その想像以上にこんなおもしろい人だとは。自分の芝居にどんどん自分の言葉でダメ出ししてく明晰さ!こんなふうにぼくもありたい。

この日は森本くんがお休みだったので代役をやり合いながら稽古したのですが、普段の相手役と違う人でやると幅が広がるし、しかし人が変わっても変わらない核のようなものを感じることもできておもしろい。あと他人の役をやると、こいつこんなこと言ってたんだ!と気づいたりして自分の役に反映させられたり。ただ読めてるつもりになっていたことに気づかされたり。幅を広げることのできた稽古でした。

29日は中城くんは高知に帰り、森本くんが復活して、劇団さあもんの方々に見学してもらいながら、たぶん2週間ぶりでずっとやってる森本・七井・佐々木のシーンを稽古。森本くんがすごくよくなってる。間がいいし、セリフを前よりずっと自由に扱えている印象。森本くんが変わったことを受けてぼくも変えてみたら、すっと着いてきてくれたり。そんなふうに空気が有機的だから、言葉は言葉として自由になれるし、言葉が自由だから体もすごく自由に使えて、体の自由さが言葉をまた強くする。あと見学に来てくれたさあもんの4人がもんのすんごおく集中して見てくれてたのも最高によかった。空気が密になっていくのがまさに肌で感じられるという感じ。お客さんってすごいなあ。

実際この日は自分もあまり今まで感じたことのない感覚だった。素っ裸な言葉がそのままゴロッと素っ裸な体から出てきてしまっているような。これは稽古後に七井さんに言われたことですが、発した言葉で空間がグニャグニャ変化していた。

そんな感じで最高だぜという稽古ができてクタクタにもなったのですが、大事なのはこれを繰り返そうとしないこと。毎日毎日ゼロから100をつくる。積み上げなんかじゃない。完全に山縣太一さんの受け売りですが。ぼくもカーテンコールで投げキッスできるくらいがんばろう。

写真は中城くんのセルフ駄目だしメモ。

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役の広がり 稽古日記 荒木



さまざまな設定を設けて、
役の人物像を変えてみる。

すると今まで考えつかなかった台詞回しが自然と出てくる。

このことから、台本を読んだ時点で、
ある種の制約がかかっているということがわかる。

こんなニュアンスだとか、
脳内で台詞が音声化してしまっている。

それを退けるために、
人物像を変えて、文脈が全く違う状態で
台詞を表出する。

結婚詐欺師と高飛車な女
ナルシストと結婚詐欺師
ラッパーとダンサー
小学六年生の男女
オタクと明暗の激しい女

提示されたもののイメージがどんななのか
という像を探りながら、役として立つ。

すると台詞と設定のギャップを埋めようと、
ものすごく頭を使って台詞を返すようになる感覚があった。

もちろん、多少反応が遅くなることはあっても、それは不自然な間ではなく、その場の生きた沈黙だった。

人物像の裏付けられたアプローチがどのように相手から投げられるのか、そしてどのような返しをすればこの関係性は成り立つのか。

その極限状態から生み出されるものは、
台本を何度読み返しても思いつかなかったもの。

閉まっていた蓋を開けるかのように、
自身の思っても見なかったものを生み出した。

10月7日 蛸の階稽古日記(柴)


昨日から主に2つのことに取り組んでます。

ひとつは、ロックな台詞合わせ。
ロック、揺れる、振動、✊✌️✋
どんなふうに台詞を発してもいい。
柔軟しながらとか、自由に身体を動かして「言葉」というよりいろんな「音」を出すアップをしました。

ふたつめは、自分の役以外の何者かになって会話をしてみる。
日曜日に中城さんと、「結婚詐欺師と高飛車な女」という設定で対話をしました。
月曜日は、その設定のほかにも、
「ナルシストと結婚詐欺師」
「オタクと情緒不安定な人」
「ラッパーとスリ(途中からダンサー)」
「小学6年生の男の子女の子」
という様々組み合わせでやってみました。

◯◯になって台詞を言うことで、お互い予測され得ない範囲からの言葉のアプローチができたように思います。
結果として、
相手の様子を見ながら話すようになる。
何を言っているのかわかるようになる。
相手に伝えるために音が変わる。
言葉に意味が生まれる。
お互い発する言葉がもつ範囲が拡張されたようでした。

対話は対話のなかで終着点が生まれていくのであって始まりから終わりが見えているわけではないと、演劇が自由であることを気づかされては忘れて、気づかされています。

「're'action」荒木 稽古日記



受けれてない(コミュニケーションがとれていない訳ではないが、近い状態)

隠し球を投げている
同じボールでやりとりしている感じがしない
通り越して言葉をかけられている感覚

自分フィルターを通して返す
自分のペースに戻す

エネルギーを引き継いで2人で大きな円をつくれていない

自分の円に誘い込むように仕向けている

相手の台詞をちゃんと聴く、観る

相手から影響を受けて変化した自分を魅せる
共演者の演技を引き立てる
相乗効果

上手い役者ほど絡みやすい

受けの芝居とはどういうことか

「観る、感じる、つながる、1つになる」 荒木 稽古日記


相手を観れていない
wsのときの方が感覚が良かったし、
相手役の挙動に反応もできてた。

言葉とルールのない状態で関係性が生まれるエチュードをしてみる

道具は傘
しかし、お互い傘という認識はない
なぞの初見の物として触れる

その傘に対する感覚を共演者に向けてみよう

傘と自室で一日中向き合ってみたらいい

傘が自分の身体の延長線上
いや、むしろ傘が本体であるかのように

相手と1つになっている感覚があれば、
それはお互いの芝居を受けているということ?

その状態に意識を向けるため、
台詞は無意識で出てるくるまで口に染み付かせること。

10/9 蛸の階稽古日記(中城賢太) 稽古のごほうび

10/9の稽古で得られたこととは…

1.反応を取り扱う体勢の確認

2.稽古で得られた気づきや解釈はごほうび

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1.
 当日稽古は上記の心がけを確認するように行われました。当初は反応を自然に表すことを忘れていたため、再度やり直した。
 次回は反応を自然に表していない部分があるため、エチュードを繰り返す予定です(どんな題目かは知りません)。

2.
稽古を繰り返すと、お客さんとして本番を観る以上の気づきや解釈があります。稽古のごほうびだと思います。しかし、それを稽古中に再現することは慎むべきという結論に達しました。稽古中はその場のやりとりに徹する。
 以前気づいたことがどんなに素晴らしくても、稽古中のやりとりがあまり代わりばえがないと思う時があっても、新しく生むことに挑むということ。
 今後はそれを安定してできるよう、体制を整えていきます。

10/18 蛸の階稽古日記(中城賢太) 2人稽古

10/18の稽古で得られたこととは…


身体ほぐし


 この日は2人だけの稽古で、身体をほぐすのも兼ねてアップを2時間、後半のシーンのおさらいを少しやりました。ちょこちょこ、台詞に対する取り組みかたを意見交換しながら。

 稽古として、どれ程進展したかどうかは不明です。しかし、どれ程小さくとも前進はしていると僕は思います。
 
 タイトル:楽しみの素

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「声のコントロール」 荒木 稽古日記

言葉を発するまで相手を探る、そして発話する

声の波を伝えるのは基本
声の大小、高低、緩急は簡単に変えれる

ただし、大きな声を出そうとすると声が高くなるのはコントロールする力が弱いように思う

また、大きな声を出そうとすると変化の幅が小さく、流れてしまうことが多い。
間も少ない?

声が上ずることへの対処は深く呼吸をし続けることで改善されるのか。

灯台守の
伝えたい→伝えられない→どうすればいい→さらけ出すしかない
という流れを魅せる

最後の長台詞。
固まっていた。最後も肩が上がっていたし、
身体の自由度が低かった。
喉が閉まっていた?喉の奥から声を出している感覚……。

もっと周りの人をかき乱せる余地があり、
もっといろいろできるはず。

沈黙に耐えきれず、不安のせいか早口になってしまうことがある。それでは台詞をちゃんと届けられない。伝わる速さを体で覚え、基本的にはそこを超えないようにしないといけない。

稽古日記 声のコントロール 荒木

言葉を発するまで相手を探る、そして発話する

声の波を伝えるのは基本
声の大小、高低、緩急は簡単に変えれる

ただし、大きな声を出そうとすると声が高くなるのはコントロールする力が弱いように思う

また、大きな声を出そうとすると変化の幅が小さく、流れてしまうことが多い。
間も少ない?

声が上ずることへの対処は深く呼吸をし続けることで改善されるのか。

灯台守の
伝えたい→伝えられない→どうすればいい→さらけ出すしかない
という流れを魅せる

最後の長台詞。
固まっていた。最後も肩が上がっていたし、
身体の自由度が低かった。
喉が閉まっていた?喉の奥から声を出している感覚……。

もっと周りの人をかき乱せる余地があり、
もっといろいろできるはず。

沈黙に耐えきれず、不安のせいか早口になってしまうことがある。それでは台詞をちゃんと届けられない。伝わる速さを体で覚え、基本的にはそこを超えないようにしないといけない。

「独り語りの意識」 荒木 稽古日記

モノローグの間に入る他人の言葉にはもっと敏感に反応するべき?

自分の世界に介入してくる訳だから……

聞いている間に、言葉を挟むのはかなり勇気を要するはず。その瞬間、意識がもっとその人に向かっても良いのではないか?

細かく動くと軽い存在に見える?
スター性を持つ人は、どっしりと緩やかな動き方が良い?

つらつら止まらずに流して言うのは説得力を産むのか?それとも?

頭の回転、賢さは見られる。

やり過ぎないようにすると、声も控えめになってしまう。声が相手、観客に届いていない。
消える魔球。

コショコショ、息多めでもエネルギーをこめて音を伝える。

無機質、独り言でもしっかり息を吸い空気に音をのせる。

叫ぶ大声を出すということではなく、
肺の息を利用して共鳴させて、空間を震わせる。

目指すのはどこからも音波を伝えれる身体。
(指先、後頭部、背中、鼻、頭頂部など…)

モノローグの時に動く際、全体に薄く、
かつ客席に濃く伝播させる。

11/5 蛸の階稽古日記(中城賢太) データと会話はできない


11/5の稽古で得られたこととは…

・「行き止まりの遁走曲」登場人物の特徴

・データ(自家発電)と会話はできない。

自家発電を僕はデータと呼ぶ。想像上の相手や場を呼び出してやりとりしている状態であり、そのやりとりは本人の中では一致している。つまり、その時の相手と場には合わない。その状態は強ければ強いほど心地よく、自身が素晴らしい演技をしているような錯覚を生む。データは初めての稽古では起こりにくく、やりとりする相手の情報が得られるほど発生しやすくなる。

相手の情報を初めて得ることは大変な作業だと思う。沢山の情報を処理していかなくてはいけない。体力も気力も使う。だから、データは消耗を抑える有効な手段でもある。


データを使う自分を減らしたければ、

まず、稽古に入る前に体力、気力を確保すること。疲れていればいるほど、身体はデータを呼び出す。無理に抑えようとすればより気力を使う。


台詞の言い方や気持ちで守るべき部分を理解すること、その上で、やりとりで見え隠れする自由な箇所を発見し続ける必要がある。守るべき部分をよく知ることで、縮こまった身体を伸ばすことができる。自由かどうか分からなければ、試してみるしかない。同じようなアプローチはデータ化を促進させる。

「行き止まりの遁走曲」の登場人物は、

各々が別々の軸をもっていて、共同体を構成しない。大げさに言えば、世界の国の代表者が集まって話をしているようなもので、はっきり意思を台詞に込めないと伝わらない。

ここで、

意思を台詞に込める✖データ=ビッグアウト(衣のつきすぎたエビフライ)

台詞をそのままいう✖データ=アウト

意思を台詞に込める(推量からくる想像ではなく、台詞から読み取れる意思であること)✖その時の相手と場の状態に気を払う=🆗(しかし体力は大幅に消耗する)

と式にした。


(推量からくる想像とは、台詞の流れや、台詞のつまみ食いでできた物語を台詞全体に適応してしまうこと。台詞ごとの細かい感情の変化を無視してしまっている状態。相手の変化があっても、自分の物語を優先してしまう。)

11/8 蛸の階稽古日記(中城賢太) ここまでのまとめ


これまでの稽古で得られたこととは…

会話をするためにすること。

会話をするためには、自分の反応を味わう。味わうためには、相手の表情や動きで自分がどのように変化しているかをみる、聞く。自身が喋っているときも、自分がどのように変化しているかをみる、聞く。

つまり、自分の状態に常に気を払う。

そのために、気力体力を充実させて、稽古に望むこと。

蛸の階 11月13日稽古日誌

稽古日誌
11月13日



いよいよ今月末に本番を控え、大阪で稽古をするのは今日で最後になりました。

その中でどうすればいい状態に持っていけるのかということをここ最近ずっと考えています。上手く行った時にもそうじゃない時にも原因が必ずあってそれを紐解いていく。一つ一つのことを見つめ直して行く事をここ最近ずっとやっています。

11月13日の稽古で上手くいかなかった時は
・何かを表現しようとしている。
→それは自分の役の人間はこういう風に感じてこんな風にやりたいんじゃないだろうか。とイメージを持ち込んでそれに合わせようと演技している。
・何故そうなるのか?
→相手役がいつもと違う事をしてこないだろうと勝手に安心している。その結果相手の変化に意識を向けず、自分の台詞、動きに集中する。
・上手く行ってない時は必ずと行って視野が狭まってる。→人は集中すると視野が狭まる。一見いいように思えるけれど自分に集中している時に視野が狭くなる感覚があって、逆に上手く行った時は視野が広く見ることができている気がする。
・相手に反応するという事に囚われる。→反応する!と言うのと反応している人は違う。上手く行ってない時はとりあえず反応している。そうすれば何かやっている感が出るから安心する。反応というのは自分でコントロール出来ない気がする。コントロールして出した反応は、反応している人をやっているだけだと思う。
・感情は結果→悲しいシーンや辛いシーンを勝手に役じゃない自分が決め打ちしてはいけない。感情の何かに気を取られてたら相手役の変化について行けない。
・先を想定しない→防御本能として守りに入ってしまう。先がわかれば安心だから。でも勇気を持って冒険しないと行けない。
・相手に合わせる。→相手に乗っかる。相手のやっている事の真似をする。効果的な場合もあるけれど自分の責任を放棄してる時が多い。

良い時の状態は
何かをしようとせず
表現せず
反応してる人にならず
集中過多にならず
安心せず
責任を持ってそこに立つ事。

稽古日が少なくなって来ました。本番まで気を抜かず進んでいきます。
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「泣くこと」 荒木 稽古日記

涙を流せていた時期があったが、
(枯れて?)出なくなった。

泣けても一滴しか出ない
なぜ?
どうすれば泣ける?

●泣く(涙を流す)方法
生理的アプローチ
①あくび
②瞬きしない
③身体を小刻みに揺らす

●実際にやってみて
①あくび
あくびは比較的自由に出せることがわかった。寝不足度合いによって出易くはなるが、出にくくなることはない。ただ、一回のあくびでは涙につながらず、複数回くり返す必要がある。そして、口を開けるとあくびがバレてしまうこと。それを避けるために口を閉じてあくびをすると鼻の穴が膨らむ。表情が変わることで、別の意味合いが出ないよう注意。感覚を掴めば実践のハードルは低い。

②瞬きしない
長時間まばたきしないのは辛い。ドライアイになる危険性もあり、目に負担を強いる。しかし、感想の後、確実に目は潤む。余計なまばたきをしないため、緊迫感のある泣きの演技には活躍すると予想される。注意点として、眼球を動かすと勝手に目に潤いが補充されるため、視線を動かすと利き目が薄れる。目線を固定した状況での試みが好ましい。涙が出る直前は、まぶたが多少ピクピク閉じようとするのを抑制しなければならない。最後は我慢。

③身体を小刻みに揺らす
あまりしっくりはきていない。身体を小刻みに揺らそうとすると、上半身に力を入れるイメージだが、それは強張るのと紙一重である。身体が緊張するのは、身体の自由度が落ちるため避けたい。他の動きに支障が出ると思われる。リラックスして小刻みに揺らせる方法を思いつけば、再チャレンジしたい。

●まとめ
僕は①、②の併用がやり易かったです。
今回は生理的アプローチをまとめました。
次回は心理的アプローチについてもまとめます。